第1課 福音の初め 7月6日
暗唱聖句:ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 マルコ1:14、15
今週の聖句:使徒言行録13:1~5、使徒言行録13:36~39、マルコ1:1~15、イザヤ40:30、
ダニエル9:24~27
今週の研究:マルコによる福音書の記者は、本文の中に自分の名前を出していませんが、初代教会の言い伝えによれば、その記者はヨハネ・マルコであったとされます。 彼は、パウロやバルナバの旅の同伴者であり(使徒13:2、5)、のちにはペトロの共労者になりました(Ⅰペト5:13)。
今週の研究では、まず、聖書に報告されているマルコについて学び、彼の初期の失敗と最終的に立ち直ったことを見ます。次に、マルコによる福音書の冒頭部分に目を向け、物語がどこへ向かうのかを先に確認するとともに、失敗し、その後立ち直った宣教師が、なぜこのような文書を記すことになったのかを振り返ります。
はじめに;マルコによる福音書は、はっきりと異なる二つの部分(ちょうど半分)に分けることができます。1章から8章の終わり近くまでは、「イエスとは何者か」という重要な問いを扱っており、その答えは、イエスの教えと奇跡の中に示されています。イエスは何度も悪に勝利し、虐げられている人々に希望をもたらし、人間存在の核心を突く説得力のある真理を教えています。これらすべてが、イエスは、ヘブライ人が長い間待ち望んできたメシア、キリストであることを読者に訴えています。
しかし、悪魔に取りつかれていない人が、イエスが何者であるのかを正しく告白し、イエスとは何者なのかという、この書の前半の問いに答えるのは、中盤になってからです。その人物はペトロです。彼は「あなたは、メシアです」(マコ8:29)と告白します。
マルコによる福音書の後半、つまり8:31から終わりまでは、「イエスはどこに向かっておられるのか」という、もう一つの問いに答えています。その答えは衝撃的です。イエスはローマの世界において最も不名誉で恥ずべき処刑方法である十字架に向かっておられました。そこは、メシアがローマを打ち破り、イスラエルを強大な国家として設立すると考えていた弟子たちが、メシアに期待していなかった行き先です。
月曜日:驚くべき変化がマルコに起こったようです。これらの聖句でパウロは、彼の宣教活動にとってのマルコの価値を指摘しています。パウロはマルコを共労者の1人と見なし、彼を連れて来るよう、テモテに頼んでいます。ペトロの手紙Ⅰによれば、ペトロもマルコと親しい関係にあったようです。パウロとペトロによるこれらの書簡が書かれたのは、たぶん西暦60年代初頭で、それは使徒言行録15章の体験から15~20年後のことです。マルコは明らかに失敗から立ち直りましたが、これはほぼ間違いなく、いとこのバルナバが彼に寄せた信頼のおかげでした。
水曜日:マルコによる福音書の冒頭の場面の珍しい特徴は、イエスが神性と人性の両方を備えられた人物として描かれていることです。神性の側面として、彼はキリスト、メシア(マコ1:1)、使者によって宣告された主(同1:2、3)、ヨハネよりも優れた方(同1:7)、“霊”が降った神の愛する御子(同1:10、11)です。しかし人性の側面として、私たちは次のようなことを見ます。彼はヨハネからバプテスマを受け(その逆ではありません。同1:9)、“霊”によって送り出され(同1:12)、サタンの誘惑を受け(同1:13)、野獣とともにあり(同)、天使たちによって仕えられています(同)。
なぜこのような対比が見られるのでしょうか。これは、キリストが私たちの主、救い主、神であると同時に、人間でもあり、私たちの兄弟、私たちの模範でもあるという驚くべき現実を示しています。どうすればこの考えを完全に理解できるのでしょうか。それはできません。しかし、私たちは信仰によってそれを受け入れ、この真実が人類に対する神の愛について私たちに明らかにしていることに驚嘆するのです。
金曜日:第一天使のメッセージは、ダニエル8:14の「2300日の預言」で予告され、1844年に始まった再臨前審判の始まりを告げています。この裁きは、迫害されている神の民に神の国をもたらします(ダニ7:22)。神を畏れ、その栄光をたたえ、礼拝しなさいという第一天使の呼びかけは、弟子になるようにとの召しであり、その呼びかけは、黙示録13章の獣の勢力が偽りの神を畏れ、その栄光をたたえ、礼拝するよう訴える終末時代の世界に向けて発せられます。
マルコ1章のイエスのメッセージが、福音宣教の開始において、ダニエル書の預言と密接に結びついているのと同様、第一天使のメッセージも、地球史の終わりにおいて、ダニエル書の預言と密接に結びついています。
今期はマルコによる福音書を学びます。マルコによる福音書は4福音書の中で、最も短い福音書です。また4福音書の中で、諸説がありますが最も古い書簡とも言われています。今週の研究に書かれていますが、本文の中には著者は名乗っていませんが、マルコであろうと言い伝えられています。ペテロの通訳として、ともに彼らは旅をして働きました。きっとペテロは歩きながら道々、マルコにイエスさまと過ごした三年半について語ったことでしょう。それは生きてイエスさまと過ごした人間のことばを、後世に伝えるためでもあったのです。読者はギリシャ語話す人たちと言われています。内容は前半と後半に分かれると、はじめにから引用しました。
マルコというと、青年時代に伝道者として献身していながら途中で落伍してしまったのは有名です。けれども当時の伝道旅行は厳しいものでした。パウロは「鞭に打たれたこと三度、難破も三度、石を投げつけられ、一昼夜海上を漂った」(Ⅱコリ11:25参照)などと語っています。いのちがけの旅路でした。また宣教も決して楽な働きではありませんでした。わたしたちも同じ旅をしたら、きっと逃げ出してしまうことでしょう。
そのマルコを次回の伝道旅行へは連れて行かないとのパウロの決断もわかりますが、後年彼はマルコの成長を認めます。これもまたすばらしいことだと思います。成長を認めること、それは本人にとっても一番うれしいことではないでしょうか。
今日はマルコによる福音書1章の前半を学びます。イエスさまの最初のメッセージが今週の暗唱聖句です。神の国は、こちらから迎えに行くのではなく、神さまから近づいてくださるのです。これは神さまの業です。わたしたちのすること、悔い改めてキリストを信じることなのです。わたしたちは終わりの時が近いことを教えてもらったとしても、それを信じて神さまの言葉に従うことは、あなたが決めることです。そしてこれしか救われる道はありません。