第8課 聖所からの光 5月25日
暗唱聖句:今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 ヘブライ 8:1、2
今週の聖句:出エジプト記 25:8、9、40、ヘブライ 8:1~6、レビ記 16:21、29~34、レビ記 23:26~32、ヘブライ 9:23~28、ダニエル 7:9、10、マタイ 25:1~13、黙示録 11:19
今週の研究: 1844年10月22日の大失望の直後、ミラー派の一部の信徒は、祈りと聖書研究を経て、自分たちの間違いを理解するようになりました。2300日の預言は、一般に理解されていたようなイエスの再臨についてではなく、ヘブライ人への手紙の中に力強く描かれている、天の聖所におけるキリストの働きについて言及していたのです。
今週の研究では、天の聖所におけるキリストの働きに関する重要な聖書の真理を探求します。
日曜日:初期のアドベンチスト信者は、1844年以降の数か月間、聖書を詳しく調べ、聖書には二つの聖所が言及されていることを理解しました。モーセが建てた聖所と、天にある原型の聖所です。聖書の中で使用されている「聖所」という用語は、第一に、天のものの「型」としてモーセによって建てられた幕屋を指し、第二に、地上の聖所が指し示す天の「真の幕屋」を指します。キリストの死により、型としての儀式はその重要性を失いました。天にある「真の幕屋」は、新しい契約の聖所です。そして、ダニエル8:14の預言がこの時代に成就するとき、それが指す聖所は新しい契約の聖所でなければなりません。
「2300日が1844年に終結したときに、この地上には幾世紀もの間、聖所はなかった。こうして、『2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』という預言は、疑いもなく天の聖所を指すのである」(『希望への光』1797ページ、『各時代の大争闘』第23章)
水曜日:神の臨在のまばゆい輝きと目もくらむ栄光に満ちた宇宙の謁見室で、私たちは契約の箱の中にある神の掟を発見します。この至聖所において、神の正義と憐れみが明らかにされます。地上のいかなる権力も神の掟を変えることはできません。なぜなら、ほかにも理由はありますが、掟が天の契約の箱に安置されているからです。ヘブライ8:10には、こうあります。「『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』」。信仰によって天の聖所に入るとき、私たちの心に律法を書き記してくださったキリストによって、私たちは過去の罪の赦しと、従順な人生を送る力を見いだすことができます。
木曜日:「天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを、復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、『わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた』幕の内に入らなければならない(ヘブル6:20)。そこには、カルバリーの十字架からの光が反映している。そこにおいて、われわれは、贖罪の奥義について、もっとはっきりした理解を持つことができる。人間の救済は、天が無限の価を払うことによって達成された。……イエスは、父なる神のみ座への道を開かれた。そして、信仰によって彼に来るすべての者の心からの願いは、彼のとりなしによって、神の前にささげられるのである」(『希望への光』1834ページ、『各時代の大争闘』第28章)。
救済計画は大争闘を解決し、この地球をサタンの支配から救うための完全な計画です。イエスの生涯は、困窮する世界と見守る宇宙に神の愛を明らかにしました。彼の死は罪の恐ろしさを明らかにし、全人類に救いをもたらしました。天の聖所におけるイエスの執り成しは、信仰によって手を伸ばすすべての人に、贖罪の恩恵をもたらします。
先週の学びで、2300の夕と朝の預言を、わたしたちの先輩たちはまちがって解釈してしまい、大きな失望を味わいました。けれども、そこで心を閉ざすことなく彼らは聖書を研究して行きました。今週の学びに「ミラー派の一部」と書かれています。ここが大切です。彼らは大きな失望を味わいました。それでも神さまのことばはまちがいないと信じて、すがり続けた人に光が与えられました。
日曜日の引用文に、2300年の預言の終わりに聖所が清められるとは、何を指しているのだろうと彼らが考えている時に、エルサレムの聖所は現存しないので、これは天にある聖所と気づきます。そこで清めとなると旧約聖書に書かれている贖罪の日に行われる聖所の罪を清める儀式につながって行くのです。彼らは、天の聖所と、その中心にある契約の箱の意味について光が与えられて行きます。これについては来週学びます。
ところで今日もユダヤ教徒は贖罪の日を守っています。今日においても、何の働きもせずに心を悩まして罪を悔い改める日となっているようです。その日は労働をしてはいけないということで、自動車の運転も禁止されて、敬虔なユダヤ教徒以外の人たちにとっては、国中が歩行者天国のようになるともネットには書かれていました。50年前、アラブ人はこの日を狙って第四次中東戦争を起こしました。昨年秋にガザを支配するハマスもこの日にイスラエルに攻め込んだのです。イスラエルの眼が外へ向かない日と考えての先制攻撃のチャンスと考えたのでしょうか。(※わたしはガザにおけるイスラエルの攻撃を肯定しているわけではありません)ユダヤ教徒たちは、救い主キリストを信じていないので、今でも旧約聖書の贖罪の日を守っているのです。彼らは誰が罪を贖ってくれると信じているのでしょうか?
旧約聖書の贖罪の日は、犠牲の羊の血が流されます。これはキリストの十字架によって罪が清められることを示しています。新約聖書の時代になって初代教会の人たちはこの意味がわかったことでしょう。天の聖所が清められること、それは神さまがわたしたちの罪を贖ってくださる約束の成就です。記録されたわたしの罪は、大祭司キリストがすべてを贖い消してくださるのです。