安息日学校部

20240113安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第13課   主を待ち望め   3月30日

 

暗唱聖句:主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。 詩編 27:14

                                                                

今週の聖句:詩編 27:14、ローマ 8:18~25、詩編 131 編、マタイ 18:3、詩編 126 編、 詩編 92 編、マルコ 16:1~8、Ⅱペトロ 1:19

                                                                

今週の研究:今期の詩編の学びも、最後の週を迎えました。この霊的な旅は、私たちにさまざまなことを体験させてくれました。それは、威厳のある創造主、王、裁き主を前にした畏敬の念、神による解放、赦し、救いの喜び、悲しみと嘆きの中での屈服の瞬間、そして神が永遠に存在されるという輝かしい約束と終わることのない普遍的礼拝への期待などです。しかし、旅は続きます。なぜなら私たちは、神へのあこがれが究極的にかなう主の到来を望みながら生きるからです。詩編から最後の言葉を引き出すとしたら、それは、「主を待ち望め」ということになるでしょう。

                                                                

日曜日:人生における最大のストレスの一つは、「待つ」というストレスでしょう。私たちが誰であろうと、どこに住んでいようと、人生のどんな立場にあろうと、私たちは皆、時として何かを待たねばなりません。お店の行列に並んで待つことから、病気の予後を聞くために待つことまで、私たちは待ちます。しかし、必ずしもそうすることが好きではありません。そうですよね。

では、神を待ち望むことに関してはどうでしょうか。主を待つという概念は、詩編だけでなく、聖書の至るところに見られます。それらの中で重要な言葉は、「忍耐」です。忍耐とは、神が私たちの期待に応えてくださらないのではないかという失望の恐れに屈しない、私たちの最大の義務のことです。神に献身する子らは待ちます。彼らは、神が誠実なお方であり、神を待ち望む者は自分の状況を神に委ねるなら、たとえその時は必ずしもそのように思えなくても、神が最高の形で解決してくださると信じられることを確信しているからです。

                                                                

火曜日:過去における主の奇跡的な救いというのは、神の民にとって、尽きることのない霊的着想の源であり、未来への希望の源です。過去の救いは、夢がかなう体験と表現できるほど大きなものでした(イザ29:7、8)。詩編126編では、主がかつてご自分の民を捕囚状態から救出されたことを賛美した世代が(詩編 126:1)、現在、捕囚状態にある(同126:4)ことに注目してください。

しかし、過去の喜びや安心感は、歌を通して追体験され、現在の体験に反映されます。新しい世代は、自分たちもその出来事を直接目撃した人たちの一員であると見なすことで、聖書の歴史を生かし続けるのです。このように、生きた信仰は、過去におけるご自分の民に対する神の偉大な業を、単に主が彼ら(過去の世代の信者)のためだけにしてくださったこととしてではなく、私たちのためにしてくださったこととして大切にします。

それどころか、過去の記憶は、現在に対する新たな希望を生み出します。「ネゲブの川」(詩篇126:4、口語訳)という表現は、神がご自分の民のために、突然力強く行動されることの効果的な比喩です。ユダのちょうど南部であるネゲブの地は、乾燥した砂漠地帯でした。雨季に大雨が降ると、突然川の流れが生じ、激しい水であふれました。先(秋)の雨と後(春)の雨は、1年間の農業の成功に重要な役割を果たしました(申11:14、28:12)。同様に、涙と共に種をまき、喜びと共に刈り入れるという比喩(詩編126:5、6)は、困難な現在から幸福な未来へ神が導いてくださるという力強い約束です。

                                                                

金曜日:詩編は、主を待ち望めと熱烈に訴えています。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(詩編37:7)。待つことが重荷で、不確かで、孤独だと感じるとき、私たちはイエスが昇天された日の弟子たちを思い出すべきです(使徒1:4 ~11)。イエスは弟子たちの目の前で天に召されたのに、彼らは、イエスが将来のいつの日か戻って来られるのを待つようにと残されたのです。あの日の弟子たちほど、今、神の祝福を受けたいと強く願った人はいないでしょう。彼らはきっと、「主よ、今、私たちを連れて行ってください」と切望したはずです。 しかし、彼らは父の約束とイエスの再臨を待つように指示されました。もし私たちが、弟子たちは絶望と失望で満たされていただろうと考えるなら、驚かされることになります。彼らはエルサレムに戻り、イエスが言われたとおりのことをしました。つまり、聖霊の賜物を待ち、その後、力強く世界に福音を伝えたのです(使徒1:12~14、2章)。

                                                                

今期の最後の学びは「主を待ち望むように」と、わたしたちに勧めている詩篇について学びます。待ち望むということは、わたしたちの時間ではなく、神さまがなさる時を待たねばなりません。そして待つためには、そこに確かな価値と希望が無ければいけないのです。火曜日の引用文に過去の導きについて思い起こすようにと勧めている詩篇について書かれています。詩篇の時代にとって、過去の神さまの大きな働きは出エジプトから始まる導きでした。人間の力では彼らがカナンの地に定住することはできませんでした。同ように、あなたの人生において、神さまがあなたのことを愛してくださっている、個人的にわたしのために働いてくださった、感謝できることが無いでしょうか。それを思い出すと、神さまがわたしのことを愛してくださっていることがわかります。神さまが、ここまで導いてくださったとしたら、そして「わたしにつながっていなさい」との命令に従い続けていたら、背を向けなかったら、神さまはまちがいなく救ってくださるのです。

そしてもう一つ、なぜわたしたちは待つでしょう。そこには神さまが与えてくださる希望があります。わたしは今まで、新しい教会に赴任したり、そして新しい働きに召された時に、いろいろな問題がありましたが、そこを去る時には、もっと大きな祝福の束を受け取りました。神さまが必ず、導いてくださることができるから待てるのです。けれども忘れないでください。神さまをわたしたちの奴隷にしないようにしましょう。神さまが最も良い時に道を開かれることを信じてください。

最後に、この希望は永遠の希望でもあります。人が全世界を手に入れても、永遠いのちを手に入れなかったら何の得になるのでしょうか。(マタ16:26,マコ8:36参照)神さまは、この希望をあなたが信じて、永遠のいのちを手に入れることができるようにキリストを送ってくださったのです。今年のイースターは3/31㈰です。キリストが罪に勝利されて、わたしたちが天国へ入る道を開いてくださったことを感謝しましょう。