安息日学校部

20240106安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第6課   私は立ち上がる   2月10日

 

暗唱聖句:主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」詩編 12:6

                                                                     

今週の聖句:詩編 18:4~19(口語訳 18:3~18)、詩編 41:2~4(41:1~3)、 申命記 15:7~11、  詩編 82 編、詩編 96:6~10、詩編 99:1~4、ローマ 8:34

                                                                     

今週の研究:確かに主は、誰も滅びないで、悔い改めて生き方を変えるようにと望みつつ (Ⅱペト3:9~15)、忍耐し、大いなる寛容のうちに怒りを抑えておられます。そして、神が介入される適切な時期は、必ずしも人間の期待と一致しませんが、神の裁きの日は来ます(詩編96:13、98:9)。私たちに必要なのは、その日が来るまで、神と神の約束をひたすら信頼することです。

神の裁きの二面性には、虐げられた者の救いと悪人たちの滅びが含まれます(同7:7~18〔口語訳7:6~17〕)。 このことは、私たちに約束されていることであり、いつか必ずやって来ますが、それは神のタイミングであって、私たちのタイミングではありません。詩編記者はその点を強調しています。

                                                                     

月曜日:神は、貧しい人、乏しい人、虐げられている人、みなしご、やもめ、寡夫、寄留者など、さまざまな弱い立場の人々に関する裁きについて、特別な配慮と関心を示しておられます。詩編は、律法の書や預言の書と同様、その点について明確です(出22:22~28〔口語訳22:21~27〕、イザ3:13~15)。

多くの詩編は、「貧しい者」「乏しい者」という表現を用いて、虐げられている人たちを専ら国家や宗教に関する言葉で表現することを避けています。これは、全人類に対する神の普遍的な配慮を強調するためです。「貧しい者」「乏しい者」という表現は、物質的な貧しさに限らず、弱さや無力さを意味します。この表現は、神の慈悲に訴えかけるものであり、苦しんでいる者が孤立しており、神以外に助けがないという考えを伝えています。また、この表現は、神に全面的に依存していることを告白し、自己信頼や自己主張を一切放棄する際に、その人の誠実さ、真実さ、神への愛にふさわしいものです。

一方、貧しい人への配慮(詩編41:2~4〔口語訳41:1~3〕)は、神に対する人々の忠誠を示します。弱者に対して行われる悪は、聖書の文化の中では特に憎むべき罪でした(申15:7~11)。詩編は、あらゆる抑圧に対して声をあげるよう、誠実な人々を刺激しています。

                                                                     

水曜日:詩編の中には、詩編記者や同胞に危害を加えようとする、あるいはすでに危害を加えた個人や国家に復讐するよう、神に懇願する詩があります。このような詩は、その表現が辛辣で、敵を愛せよという聖書の原則(マタ5:44)と見かけ上一致していないため、当惑させられるかもしれません。

しかし、抑圧に直面した詩編記者の憤りは、良い憤りです。それは、この詩編記者たちが多くの人よりも善悪を真剣に考えていたという意味です。彼は、自分に対してだけでなく、他人に対しても行われるこの世の悪を大いに気にかけています。

しかし、詩編記者は、自分が復讐の主体であるとはどこにも示唆していません。むしろ、彼は報復を神の手にのみ委ねています。これらの詩は、神の呪いの契約(申27:9~16)を呼び起こし、神が約束されたとおりに行動するよう懇願しているのです。

                                                                     

金曜日:詩編は、不正に対する人間の無関心への抗議であり、悪を受け入れることを拒絶しています。その動機は、復讐を願う気持ちではなく、神の名に栄光を帰したいという熱意です。従って、義人が悪に対する神の復讐を見て喜ぶのはふさわしいことです。このようにして、神の名と神の正義がこの世に回復されるからです(詩編58:11、12〔口語訳58:10、11〕)。詩編は、悪に対して声をあげ、神の国の完全な到来を求めるよう、人々に促します。詩編の中で、私たちは神の慰めと救いの確証を与えられています。主は立ち上がられるのです!

                                                                     

今週は虐げられている立場にいる人について学びます。虐げられて苦しんでいる人の原因として、不正な扱いを受けて苦しんでいる人と貧困が、今週の学びでは挙げられています。

不正な扱いを受けていることで苦しみに遭っているとしたら、その逆もあるわけで、不正な富を蓄財している方がいて、その結果わたしが苦しんでいるということもあるかもしれません。貧困についても、自らが蒔いた種を刈り取る人もいるでしょうが、自分が貧困の環境に生まれて来てしまった方もいることでしょう。誰かのせいで自分が苦しんでいる時に、わたしたちはその環境が改善されることを願います。そのために問題の要因となっている誰かのことを憎み、排除されることを願ってしまいます。けれども今週の学びでくりかえし書かれているのは、苦しみを与えている誰かを裁かれるのは神さまであり、神さまの時にまかせねばなりません。この問題の根底にあるのは、わたしの想いではなく、神さまのみこころに従うことなのです。これについては、苦しい立場にある人だけでなく、すべての人に問いかけられています。

最後に、貧しさは金銭や財産が無いことだけではありません。心が貧しい、これはもっと深刻な問題かもしれません。そしてそのことに気づいていないことが多々あります。わたしたちは、自らの弱さ、貧しさに気づいた時に、神さまに求めることができます。神さまの必要を心から願い時に、必ずあなたに神さまは与えてくださいます。たとえば相手のあることだと、神さまはわたしの都合だけでは何かをすることができないこともあるでしょう。けれども知恵を与えてくださることは、わたしにだけ与えれば良いのです。だからこそ神さまは知恵を求めるように招いておられるのです。(ヤコブ1:5)けれども求めようとするのは、神さまに心から信頼をしていないと求めないでしょうか。大切なのは神さまとあなたとの関係なのです。