第3課 宣教への神の召し 10月21日
暗唱聖句:あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。 使徒言行録 1:8
今週の聖句:創世記 11:1~9、創世記 12:1~3、ダニエル 9:24~27、マタイ 1:21、 創世記 12:10~13:1、使徒言行録 8:1~4、使徒言行録 1:8
今週の研究:イエスの弟子たちは、同胞のためだけに働くことから(使徒3章)、ほかの人々のためにも働くようになりました(同8:1~4)。使徒言行録1:8で、イエスは伝道の原則を示されました。彼らは地元のエルサレムやユダヤから始めて、サマリアに行き、そして、最終的には地の果てまで行くのです。
しかし、たとえ私たちが自分の国を離れなくとも、神は私たちが周囲の人々に手を差し伸べることを望んでおられます。エルサレム教会が自己満足に陥っていたとき、その教会員は散らされました。迫害を受け、彼らは苦しみましたが、これらの不幸な出来事は、世界中に良い知らせを広める手段となりました。
日曜日:バベルの塔の物語には、建設者たちの大きな野望があらわれています。彼らは記念碑的な建造物、すなわち世界のどこにも存在しないような塔と都市を造ろうとしていました─「天まで届く塔を建て、有名になろう」(創11:4)。
今日でも、人々は頻繁に同じことをしようとしています。政治、芸術、ビジネスの世界はもとより、宗教界にさえ見られます。名声を得たいと思っている人たちがいるのです。結局のところ、彼らの努力はなんと無益で無意味なものでしょう。(コヘ2:1~11参照)。
聖書は、この人たちが塔を建てたのは、全地に散らされることのないようにするためであったと記しています(創11:4)。彼らは自分たちの利己的な理由のために、団結することを願ったのです。しかし、神は別の計画をお持ちでした。
火曜日:宣教活動が簡単だと言った人は誰もいませんし、アブラハムは、嘘をつき、欺くことによって、事態を悪化させただけでした。幸いにも、神は忍耐の神で あり、アブラハムが犯した過ちのために(残念ながら、その過ちはこれだけではありませんでしたが)、この僕を見捨てることはありませんでした。たとえ私たちが間違いを犯しても、信仰と服従をもって主にしがみつくなら、アブラハムのように、私たちの間違いや罪や欠点が赦されるだけでなく、主が私たちを宣教のためになお用いてくださるというのは、なんという慰めでしょう。
木曜日:使徒言行録1:8にあるイエスの言葉には、いくつかの原則があります。まず、「(あなたがたは)エルサレム(で)……わたしの証人となる」。これまで見てきたように(繰り返す必要があることですが)、私たちは物理的に住んでいる場所で主の証人となります。その場所は、自分の家、教会、近所、地域社会などです。私たちは、まず自分がいる場所、主が私たちを置かれた家庭や職場で主の証人となる必要があり、さらに、身近な人々に対して主の証人になる必要があります。その人々は、家族、親戚、教会員、職場の同僚、隣人、地域社会などです。
次は、「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(使徒1:8) です。ここでもイエスは、証には文化の境界を越えることが伴うという現実を確認しておられます。私たちは、今いる場所から始めて、ほかの地域に移動し、 異なる社会的、民族的、宗教的集団に手を差し伸べるように召されるかもしれません。もし私がある民族や言語集団に属しているならば、文化的な壁が少ないため、証をすることはずっと簡単なのかもしれません。世界の一部地域では、教会の構成員が1つの氏族や部族だけの場合があります。しかし、イエスの大宣教命令は、イエスの証人として、快適な場所から出て、そのような人々のために資源を投じることが重要であると教えています。彼らもイエスのメッセー ジを必要としているからです。
神さまは、すべての人が救われるようにイエスさまがわたしたちの罪をあがなうために十字架に架かって身代わりとなってくださいました。その目的は、一人も滅びないで永遠のいのちを得るためでした。神さまはそのことを多くの人に伝えるために、わたしたちを召してくださったのです。
第二次世界大戦に日本が負けた後に、多くの人は心にあいたむなしさを埋めるために教会の門をたたいて、多くの教会でクリスチャンが増えました。けれども今の日本では、講演会の看板を掲げただけで、新しい方が教会へは加わってくださいません。個人的な必要に耳を傾けて、そこに応えていくうちに信頼関係が築かれて心が開かれて、はじめて福音が相手に届くのではないでしょうか。
このことは福祉の働きをしていると強く感じます。福祉と伝道は切り離して考えますが、地域の必要があり、そのために福祉施設としてできることをやれたら地域の方は喜んで施設を信頼してくださり、そしてまた新しい働きを始めることができるという好循環が生まれてきます。
何度も書いていますが、福祉と伝道は異なります。福祉はあくまでも助けが必要な方の幸せのために働きます。そして今日、福祉施設がかかわるほどではない、地域の小さな必要を地域で対応して行こうという共助の考えが広がってきています。わたしたちが、このような地域に働きに携わり、その中で働いていくことで、地域にとってなくてはならない存在となること、それが宣教の第一歩ではないでしょうか。キリストは世の光の前に地の塩となれと命じているのも、このためなのです。これだったら、あなたも地域の活動の中に加わって行くことなので、挑戦することはできるのではないでしょうか?