第9課 賢く生きる 8月26日
暗唱聖句:愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。 エフェソ 5:15~17
今週の聖句:エフェソ 5:1~20、1 コリント 5:1~11、黙示録 16:1~16、コロサイ 4:5、 箴言 20:1、箴言 23:29~35、使徒言行録 16:25
今週の研究:エフェソ5:1~20でパウロは、異邦人と信徒が何に価値を置くかを比較しています。異邦人は、卑わいな話(エフェ 5:4)、酒に酔いしれること(同5: 18)、堕落した性行為(同5:3、5)を人生の大切な宝として価値を置いていました。しかし信徒は、すべての物事の真の価値が明らかになる最終鑑定の日が 来ることを知っています(同5:5、6)。彼らは、みだらな集まりや酒に浸ることに価値を置かず、キリストにある「あらゆる善意と正義と真実」(同5:9)をかけがえのない宝として価値を置いていました。パウロは、信徒たちに(私たち が皆そうであるように)永遠の門口に生きている者として、キリストの内に見いだされる真に価値のある掘り出し物を手に入れるよう、熱心に勧めています (同5:15~17)
日曜日:パウロはエフェソの信徒に、この箇所の重要な招きとして、愛によって歩むよう熱心に勧めています(エフェ 5:8、15参照)。この「愛によって歩む」こと (同5:2参照)は、贖いの犠牲の中に示された、私たちへのキリストの愛に倣ったものでなければなりません(同4:32と比較)。パウロはこの犠牲について、次の四つのことを確証しています。(1)父なる神(同5:1)とキリストご自身の愛 (同5:2)によって動機づけられること。(2)キリストは私たちの身代わりとなって死んでくださった代理であること。キリストは受動的な犠牲者ではなく、私たちのためにご自身をささげられました。(3)旧約時代の聖所での奉仕に象徴されるように、キリストの死は神にささげられた犠牲でもあること。(4)この犠牲は、「香りのよい供え物」(同5:2を出29:18、レビ2:9、フィリ4:18と比較)として、神に受け入れられたこと。
そしてエフェソ5:3~5は、性的道徳についての懸念が表明されています。 エフェソの若い改宗者たちは、クリスチャンとしての召しに反して、彼らの証を否定するような性的行為に引き戻される危険にさらされていました(1コリ5: 1~11、6:12~20、2コリ12:21と比較)。
月曜日:パウロは、「光の子として歩みなさい」(エフェ 5:8)と勧告し、さらに続けて、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(同5:10)と命じています。異邦人たちは、「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと」(同5:3)によって快楽を求めます。しかし、信徒の目指すものはまったく異なります。信徒は自分ではなく、神を喜ばせようとします(ロマ12:1、2コリ5:9、ヘブ13:21と比較)。信徒は、キリストの自己犠牲に倣うことを求めます(「キリストがわたしたちを愛して御自分を……わたしたちのために献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」〔エフェ 5:2〕)。
木曜日:パウロはここで、「霊に満たされ(る)」(エフェ 5:18)という勧めを共同体に適用し、一つのものとなり(エフェ 4章)、利己的な異教の行動や礼拝とは対照的な、聖霊に導かれて神を礼拝するために集う信徒たちの姿(同5:1~18)を描いています。このような初期のクリスチャンの礼拝の描写は、音楽による賛美に支配されています。教会は賛美の歌から生まれたという主張があります。この箇所はコロサイ3:16と共に、その最も良い証拠となっています(使徒16: 25、ヤコ5:13と比較)。
歌うことによって、教会員はある意味「語り合(う)」(エフェ 5:19)ので、 礼拝には「横」の要素があります。しかしながら、音楽を用いて賛美する具体 的な対象は、エフェソ5:20が「主イエス・キリスト」と呼んでいる主です(コ ロ3:16と比較)。エフェソ5:20で語られる感謝は、同5:19で語られている音楽による賛美と並んで、「わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に」ささげられるべきものです。ここで用いられている「霊的な歌」の、 「霊的な」(ギリシア語では「プニューマティコス」)という形容詞は、聖霊に導かれた、あるいは聖霊に満たされた歌をあらわし、礼拝における聖霊の役割を強調しています。ですから、パウロが描いた初期のクリスチャンの礼拝は、三位の神すべてが、積極的に関与しておられることをあらわしています。
今週はエフェソ5章1~20節を学びます。パウロはここで、くりかえして光の子として歩むことを勧めています。かつての罪びとだった時には、誘惑に負けて欲望の赴くままに、みだらなことをしていました。このような生活に戻らないように勧められています。
今週のタイトルは「賢く生きる」となっています。暗唱聖句では「今は悪い時代」と書かれています。パウロの時代が悪かったら、現代はどうなるのでしょうか。わたしたちはお金を払いさえすれば、大概のことはすることができます。それは良いことも悪いこともです。いつも書いていますが、誘惑に負けてまちがった選びをするのはあなたなのです。正しい判断をするためにはどうしたらよいのでしょうか。それが賢く生きることなのではないでしょうか。
賢い判断をするためには、冷静にならねばなりません。誘惑に負ける時は、まわりが見えてみない時です。落ち着いて考えたら、こんなことで失敗しないと思います。次に何が大切か、ほんとうに価値のあるものを知っているからです。そうしたら他のものは陳腐に見えて、正しい判断をすることができるようになります。そのためにも神さまに愛されるものとして「神さまに喜ばれることは何か」をしっかりと考えて行かねばなりませんね。