安息日学校部

20230306安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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                                      第6課   福音の神秘   8月5日

 

暗唱聖句:わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アー メン。 エフェソ 3:20、21

今週の聖句:エフェソ 3 章、ヨブ記 11:5~9、エゼキエル 43:13~16、アモス 7:7、8、          黙示録 11:1、2

                                                                  

今週の研究:福音の中心にある神秘、教会において、異邦人がユダヤ人の兄弟姉妹と対等な立場にあるという神秘へのパウロの献身について聞きます。教会と教会に与えられた全世界の人々への使命に対するパウロの情熱を知るのです。 そして、教会を通してあらわされている神の恵みを、神に賛美しているパウロの祈りに耳を傾けます。つまり、私たちはパウロの福音への情熱に力づけられるのです。

 

                                                                         

日曜日:エフェソ3章は興味深い構成になっています。パウロは、この章を「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……」(エフェ 3:1)と書き始めます。それから本題からそれて、異邦人への使徒としての働きに焦点を当て(同3:2~13)、その後、「こういう わけで」(同3:14)と本題に戻り、14~21節で中断された祈りを書きます。

パウロはエフェソ3:1で、自らを「キリスト・イエスの囚人」であると名乗り、ローマの囚人としてローマ帝国の権威の下にあるけれども、自分の人生に、より深い神の目的が働いていると主張します。彼はローマの囚人ではなく、「キリスト・イエスの囚人」(同4:1と比較)なのです!

パウロの心配の中心は、おそらく、自分が囚人であることが信徒たちに与える精神的なショックであったと考えられます。なぜなら、栄誉と恥を重んじる文化にあって、囚人であることが極めて社会的に不名誉なことであったからです。パウロは、「高められたキリストの使徒であり、メッセンジャーであるパウロが、どうして軽蔑される囚人でありうるのか」と問われることを懸念したかもしれません。そこでパウロは、信徒が自分の投獄を神の計画の一部であることを理解するのを助けるために、別の視点から語ります。パウロは彼らのために(新共同訳では「あなたがたのために」)苦難を受けているのであり、恥ずべきことに見えることが、実は彼らの「栄光」(同3:13)のためになっていました。

 

                                                                         

火曜日:パウロはここで再び、神は、「わたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました」と述べています(エフェ 3:7、3:1、2と比較)。この賜物は、福音そのものと同様に、受ける者の価値によって与えられるのではなく、神の恵みによって与えられるものです。パウロは自分自身を「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者である」(同3:8)と表現し、この点を強調しています。

このパウロの一連の思想を理解するには、次のエレン・ホワイトの有名な言葉が助けとなるでしょう。「イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす聖霊の力が働いている証拠です」(『希望への光』 1957ページ、『キリストへの道』改訂文庫版96ページ)

 

                                                                         

水曜日:パウロは、信徒に与えられる祝福の大きさを神に賛美するために、三つの次元でなく、「広さ、長さ、高さ、深さ」(同3:18)の四つの次元を挙げています。 彼は、これらの次元が何に適用されるかを明確に特定していませんが、何か重要なものの大きさを説明していることは明らかです。これは聖書を学ぶ者に興味深い問いを残します。これらの次元は、神の知恵(四つの次元を使うヨブ11:5 ~9と比較)、神の力(エフェ 3:16、17と比較)、あるいは、エフェソ2:19~22の霊的な神殿(四つの次元を使うエゼ43:13~16、アモ7:7、8、黙11:1、2と比較)を表現しているのでしょうか。「キリストの愛」(エフェ 3:18)の大きさを説明し、「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」(同3:18)と、次の「この愛を知るように」(同3:19、ロマ8:35~39と比較)に平行していると理解するのが最善なのかもしれません。いずれにせよ、それらは福音です。

                                                                         

木曜日:私たちが問題、誘惑、疑いに押しつぶされそうになるとき、パウロのこの力強い祈りに立ち返ることができます。この投獄された使徒は、私たちの目を神の目的と恵みという壮大な領域に引き上げ、現在の状況がどうであれ、私たちは神の究極の計画の参加者であり(同1:9、10)、神の力が私たちのうちに働いていることを思い起こさせてくれています。

 

                                                                         

今週はエフェソの信徒への手紙の三章を学びます。三章の冒頭でパウロは、わたしは「異邦人のための使徒である」とはっきり述べています。彼は現代の日本人で例えると、日本人ではなく日系人でした。ユダヤで育ったではなく、今のトルコで育ちました。ですからローマの市民権を持ち、そしてヘレニズム文化を理解し、当時の世界で用いられていたギリシャ語で考えることができました。同時にエルサレムに留学もしているので、聖書についてもしっかりと学び、ユダヤ人の想いも理解していたのでした。キリスト教が世界宣教を開始する時に、彼ほどの人材はいませんでした。だから神さまは彼を選ばれ、そして彼も自分の使命を理解していました。

そして彼は異邦人への使徒として「奥義を知らされている」と述べています。この奥義とは何でしょうか。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(コリント第一12:13)とパウロはコリント第一の手紙で語っています。コリント第一12章は賜物の一覧と言われる場所で、神さまは人種や立場、能力などすべて人を愛されて、必要な賜物を与えられました。これが奥義だと語っています。これらはわたしたちが選んだものではありません。生まれながらに与えられたものなのです。だからこの優劣を競うのではなく、それぞれの立場や場所で一致して神さまに仕えるように勧めています。

そしてパウロ自身が、自らのことを最も小さい者(エフェ3:8)とまで言っているのです。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(コリント第二 4:7)入れ物ではありません。中身が大切です。わたしたちは醜い小さな器ですが、神さまがその中をすばらしいもので満たしてくださるのです。だから神さまから救われて、恵まれたものとしてお互いに一致するようにパウロは勧めています。

それだけでなく、三章の後半では、救われたものとして大胆に神さまに近づいてほしいと勧めています。今は患難のうちにありますが、水曜日の引用文にありますが、神さまから与えられている大きな恵みと希望をしっかり見据えれば、この恵みから落ちてしまうことはないと励ましています。いずれにせよ、これらの恵みは神さまから無償で与えられた福音なのです。