第3課 御座に着かれたイエスの力 7月15日
暗唱聖句:また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ エフェソ 1:19、20
今週の聖句:エフェソ 1:15~23、エフェソ 3:14~21、1 テサロニケ 5:16~18、申命記 9:29、 1 コリント 15:20~22、詩編 110:1
今週の研究:パウロは、エフェソの信徒が、彼らの文化にあるさまざまな力神々をあがめる誘惑にさらされても、聖霊によって、神がキリストにおいて彼らに与えてくださった無限の力を経験できるようにと祈っています。この神の力は、馬力や魔術で測られるものではありませんが、次の四つの救いの歴史の出来事に見ることができます。(1)イエスの復活、(2)イエスが神の御座に着かれたこと、(3)イエスがすべてのものを従わせられたこと、(4)イエスが教会の頭として与えられたこと(エフェ 1:19~23)。
これらの四つの出来事を考えるとき、信徒は神が自分たちのために行使される神の力の大きさを理解し、その力を経験することができるでしょう。
日曜日:パウロはまた、「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」(エフェ 1:16、フィリ1:3、4、1テサ1:2、同5:16~18参照)。
「絶えず祈(る)」(1テサ5:17)とは、どういう意味でしょうか。それは、私たちがいつも神の前にひざまずいて祈ることではありません。それは、神の霊に祝福され、神の臨在と力に心を開き、神に感謝するために証を求めて生きることを意味します。それは、神の臨在にあって人生の問題を対処するために備えること、また人生がもたらす紆余曲折を経験するとき神の助言を求めるために用意をすることを意味します。それは、神と距離を置くのではなく、神と交わり、神の導きに常に心を開くことを意味します。
私たちは、祈りというものを、弟子として都合の良いときに行う形式的で、付加的なものだと考えがちです。パウロはこれとは異なる考えを示しています。 彼はエフェソの信徒のために祈るという務めを真剣に受け止め、彼らのために感謝し(エフェ 1:16を同1:3~14と比較)、とりなす(同1:17~23を同3:14~21 と比較)ことによってその務めを果たしています。パウロにとって祈ることは、クリスチャン信仰の重要な務めであり、唯一の務めでさえありました。これらの聖句は、祈りへの熱心な呼びかけであり、私たち各自がパウロの模範を通して、自分自身の「祈りのミニストリー」を考えるようにと招いているのです。
月曜日:パウロが、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(同1:18)を洞察できるように祈るとき、彼は信徒たちが神の嗣業であるという旧約の思想(申9:29、32:9、ゼカ2:16〔口語訳2:12〕をエフェ 1:11と 比較)を思い起こしています。
パウロは、信徒たちが神からの財産を受け継ぐ者であるだけでなく、自分たちが神の嗣業であることを知り、神にとって価値のある存在であることを悟って欲しいと願っています。パウロが、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」(エフェ 1:19)について霊的な洞察を求めて祈るとき、彼は、聖霊が神の力の無限の大きさを新たに悟らせ、彼らの経験の中でその力を実現させることを思い描いています。
これらの祈りを通してパウロは、信徒たちがイエスにおいて与えられている ものを自分自身で経験することを望んでいるのです。
木曜日:神はキリストをすべての悪の力に対する勝利者とされました。教会は、キリストと親しく結ばれ、キリストによってすべての必要が満たされるので、敵に対する勝利が保証されています。キリストの復活とあらゆる宇宙の力の上に高められたキリストによって示された神の力は、教会のために働くようになりました。神は教会に勝利したキリストをお与えになり、教会はキリストの体と呼ばれるほど、キリストと一つに結ばれています。
私たち信徒は、どのようにして高められたキリストを知り、生活の中に神の力を経験することができるでしょうか。パウロはそのメカニズムや方法について、直接述べていません。しかし、この箇所が「祈りの言葉」の一部であるという事実は、それを理解する助けとなります。パウロは、神が自分の祈りに答えてくださると信じています。パウロは、キリストにおいて明らかにされた神の力を、神の臨在の中でたたえ、神の力が信徒たちの生活の中に働くようにと、 願い求めることの効果を確信しているのです。
今週はエフェソ1章の後半を学びます。本論の始まりと言っても良いでしょう。パウロは、あなた方のために絶えず祈っているという言葉で始まっています。パウロは愛するエフェソの信徒が、どのように成長して欲しいのかを、祈りを通して語りかけています。この絶えず祈っているについて、日曜日の引用文に書かれていますが、絶えずひざまずいて祈っているのではなく、いつも神さまとつながって、そして神さまの守りを信頼して、ともに歩もうとしている、このようなことを彼は言おうとしているし、またエフェソの信徒にもそのような歩みを願っているのです。
そのために月曜日の引用文にありますが、わたしたちが救われたことがどんなに大きなことなのか、どれだけの犠牲が払われたものなのか、その価値や意味を考えるとことは、今日のわたしたちにとっても同じように大切なことです。こんなわたしに福音を届けてくださり、救いの道を開いてくださったこと、それを心から感謝をしなければなりません。
木曜日の学びで、パウロは生きている神さまへの信頼を語っています。エフェソも偶像崇拝の街でした。けれどもほんとうの神さまは生きてわたしたちのために働いてくださるのです。信じて前進する時に、その神さまの大きな働きで出会うことできます。そのことを信徒一人ひとりが悟ることができるように、これがパウロの祈りなのです。これは今日のわたしたちも同じです。