第9課 混乱と呼ばれた都市 5月27日
暗唱聖句:「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。 小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。 黙示録 17:14
今週の聖句:黙示録 17:1、2、15、黙示録 18:1~4、黙示録 17:4~6、マタイ 16:18、 エレミヤ 50:33~38、詩編 115:4~8
今週の研究: 大争闘の主題は、象徴的に2人の女によって黙示録に要約されています。1人は黙示録12章の太陽をまとった女であり、もう1人は、黙示録17章の紫と赤の衣を着た女です。
今週の学びを通して、私たちは、黙示録の2人の女について学び、真理と偽りの間の闘いをより深く学びます。
火曜日:要するに、霊的バビロンとは、人間の教えに基づき、人間の思想の上に立てられ、人間の伝統によって支えられている宗教を表しています。それはおそらく、優秀な人間の宗教指導者たちによって築かれた人間が作った宗教であり、福音の力とイエスが建てられた教会、すなわち暴力ではなく愛によって建てられた教会に対立するものです。
黙示録は、これら二つの宗教体系を描写しています。最初の体系は、イエスへの完全な信頼と、イエスの御言葉に頼ることを明らかにするものです。もう一つの体系は、人間の権威への信頼と、人間の宗教教師に頼ることを明らかにするものです。一方は、救いのためのキリストの恵み、犠牲、贖いに全面的に頼る、キリストを中心とする信仰です。もう一方は、救いのためのキリストへの完全な信頼を、教会の伝統への信頼に置き換える人間主義的な信仰です。
水曜日:キリストは、教会がその上に建てられる堅固な土台です。キリストの教会は、キリストの御言葉の教えに基づき、聖霊によって導かれます。それに対してバビロンは、これまで学んできたように、人間が作った教えと言い伝えに根ざして ます。聖書に示されている神の御心に代わって、あるいはその上に、人間の考えや言い伝えをおく宗教指導者は、バビロンの混乱を助長しているだけです。
古代バビロンの時代には、教会と国家は一つであり、同じものでした。ネブカドネツァル王は神殿で王座に着いたとき、神々の言葉を語ったといわれています。ある時、バビロンの王は、真の神に挑戦する行為として、礼拝を強制するための万国共通の命令を発布し、すべての民にその命令に従うように命じました。この出来事は、偽りの像を拝むことを拒む神の忠実な民が、終わりの時代に直面することをよく表す象徴です(ダニエル3章参照)。
木曜日:霊的バビロンの偶像礼拝の問題は、単に木や石で作った像の前で頭を下げること以上に深いものですが、霊的バビロンは、礼拝に像を持ち込んだという点で、古代バビロニアと類似しています。礼拝、またはいわゆる「崇敬」の対象として像を用いることは十戒の第二条に違反します。なぜならそれは、聖霊が私たちの心に永遠の事柄を印象づけられる力を制限し、神の威厳を生命のない彫像へとおとしめる行為であるからです。これらの像は、キリスト教を異教の大衆により受け入れやすくするために、4世紀にキリスト教の中に持ち込まれました。残念なことに、これらの像はしばしば、神のみに属する神聖さと敬意が与えられ、それによってすべてのことを霊的に退廃させています。
今週は霊的バビロンについて学びます。霊的バビロンについては火曜日の引用文に「要するに、霊的バビロンとは、人間の教えに基づき、人間の思想の上に立てられ、人間の伝統によって支えられている宗教を表しています。」と書かれています。
牧師として駆け出しのころ、新しい任地に赴任した時に、近隣の他の教派の教会へ着任の挨拶に向かった時のことでした。会ってくださった牧師は、アメリカの有名大学で博士号を取ったような先生で、彼はわたしに決して議論をするわけではありませんが「なぜアドベンチスト教会は土曜日安息日を守るのですか?」と聞かれました。わたしは創造主を礼拝することや十戒に書かれていることを守ろうとしているなどと答えました。すると「今日までの教会の伝承や伝統はどのように考えますか?」と質問されたことを忘れません。この牧師はプロテスタント教会の牧師でしたが、彼らの神学の中において、聖書の教えが伝承によって解釈をされているのかと、わたしは逆に驚いたものでした。伝承や伝統は人の営みの中で積み重ねられたものです。日曜安息日の根拠は、人によって作られたものなのです。
また数日前に、フランスの焼失したノートルダム大聖堂の修復作業のテレビを見ました。聖堂の中には、聖書の物語を描いたステンドグラスがありました。これは字を読めなかった人が、聖書の物語を知るためだったと言われています。そして聖堂の片方にはキリストが、そしてもう片方には聖母マリアの像がありました。神さま以外の別の崇拝対象が人の手で設けられているのです。
彼らはとても敬虔で、そして深い信仰理解があるかもしれません。特に日本のようにキリスト教界が広くない世界では、彼らが書いた書物もわたしたちの信仰を深めてくれます。けれどもその教えの根底には、人が積み上げて来たものに従っているのです。先週の学びで教会の中に入っている進化論についても学びましたが、日曜礼拝も同じように人間の考えて加わって来たものなのです。
神さまの律法である十戒は、ほんとうの礼拝について教えていますね。人間が教会を変えて来てしまうことを神さまはご存じだからこそ、しっかりと十戒を与えられたのでしょう。十戒を守ること、それは安息日を守るということだけでなく、神さまを愛して人を心から愛するための律法です。表面に書かれていることを守るだけでなく、神さまのみこころを聴いて従って行きましょう。