第5課 裁きというよき知らせ 4月29日
暗唱聖句:大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」黙示録 14:7
今週の聖句:黙示録 14:7、詩編 51:3~6(口語訳 51:1~4)、黙示録 20:12、ダニエル 7:9、14、26、黙示録 4:2~4、黙示録 5:1~12
今週の研究:私たちの心の最も深いところまでご存知である神、また、「善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出される」(コへ12:14)神の御前に申し開きをしなければならないとは、なんと恐ろしいことでしょう。
しかし究極的な意味において、裁きは、神の善と恵みを明らかにし、救われた者だけでなく滅びる者の取り扱いに対しても、神は正義とあわれみに富むお方であることを明らかにします。
今週、私たちは、宇宙で猛威を振るう大争闘との関連の中で、裁きのより深い主題を探求します。特に、神の忠実な民が、避けることのできない「来たるべき裁き」(使徒24:25)に直面するとき、何が起こるかについて学びます。
月曜日:十字架と裁きは共に、神が義とあわれみ深いお方であることを明らかにしています。破られた律法は罪人の死を要求します。義は「罪が支払う報酬は死」であると宣告し、あわれみは「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」であると応答します(ロマ6:23)。もし神の律法が変更されたり、廃止されたりするなら、イエスが死ぬ必要はまったくなかったでしょう。キリストの死は、律法の永遠性と、律法が裁きの基準であることを確立したのです。
聖霊によって与えられた私たちの善い行いは、私たちを救いませんが、私たちの信仰が純粋であることを証明します。神の最後の裁きは、すべての見せかけ、偽善、虚偽を取り除き、人の存在の最も奥深くまで見抜きます。エレン・ホワイトは、裁きにおける神の御前の私たちの立場を描写する中で、福音と裁きがどのように調和するかについて力強い洞察を提供しています。
水曜日:これは明らかに天の法廷の場面です。父なる神が、天の住人たちに囲まれて玉座に座っておられます。雷と稲妻は、神の裁きを象徴しています。また、黙示録4:4には、24人の長老が玉座の周りにいることが記されています。
この24人の長老とはだれなのでしょうか。古代イスラエルでは、レビ族の祭司は24の組に分けられていました。これらの祭司は神の前で民を代表していました。1ペトロ2:9で、使徒(ペトロ)は、新約の信者たちが「選ばれた民」、「王の系統を引く祭司」であると宣言しています。これらの24人の長老は、いつの日か、神の玉座の周りで喜ぶすべての贖われた者たちを表しているか、もしくは、キリストの復活の時によみがえり、イエスと共に天に上げられた人々 (マタ27:52、エフェ 4:7、8)を表していると思われます。
いずれにせよ、これは良き知らせです。神の玉座の周りには、地上からの贖われた者たちがいます。彼らは、私たちと同じように誘惑に直面しました。キ リストの恵みと聖霊の力によって、彼らは勝利したのです。彼らは「白い衣」を着ていますが、これは罪を覆い、清めるキリストの義を象徴しています。また、頭には金の冠をかぶっていますが、これは彼らが善と悪の戦いに勝利し、信仰に満たされた信者であり、天の王の系統を引く者であることを象徴しています。
木曜日:全人類の救いのために、ご自分の命を犠牲にされた神の小羊であるイエスが、裁きの巻物を手に取って開かれます。全天に歓喜の賛美が響き渡ります。イエスのサタンの誘惑に対する勝利、カルバリーの十字架での死、復活、大祭司としての働きは、信仰によってその恵みに応えることを選ぶすべての者に救いをもたらします。裁きは、神の民にとって、信じられないほどの良き知らせです。それは、罪の支配の終わりと、神の民の救いを告げているのです。
これに勝る励ましがあるでしょうか。この裁きにおいて、イエスは私たちを弁護してくださいます。イエスの完全な義の生涯が私たちを覆います。イエスの義が私たちのうちに働いて私たちを新しくします。イエスの恵みによって私たちは赦され、私たちはつくり変えられ、神のように生きる力を得られます。
私たちは恐れるにはおよびません。イエスが裁きにおいて私たちを弁護してくださり、悪の勢力は打ち負かされます。裁きは神の民の「ために」(ダニ7: 22、口語訳)なされるのです。この裁きの目的は、私たちがどれほど悪いかを知ることではなく、神がどれほど良いお方であるかを明らかにすることにあります。
今週は「裁き」について学びます。もしあなたが裁かれるとしたら、それはうれしいことでしょうか?施設の責任を負っていると、いろいろな問題が起きます。裁判沙汰にはなっていないにしても、行政や関係機関に指導を仰いだり、時には弁護士に関わっていただくような案件も生じます。その時の判断材料になるのは、ことの善悪ではなく、法に対して正しいのかまちがっているのかになります。たとえば何か問題が発生した時に、こちらの就業規則に不備があり労働関連の法律との間に齟齬があったりした場合などは、こちらの主張が正しいと思われても是正が求められます。
月曜日の学びにありますが、神さまの裁きは神さまの律法が正しいものであることを表すためです。「キリストの死は、律法の永遠性と、律法が裁きの基準であることを確立したのです。」書かれています。
神の律法が正しければ、罪人であるわたしたちの未来は永遠の死でしかありません。けれどもこの裁きでは、弁護者であるキリストが、十字架でかわりに全人類の罪を背負って下さった、この神さまの愛と救いを受け入れたか否かを問われます。裁きによって神さまの愛が証明されると同時に、わたしたちができることは、十字架の愛を信じることしか救われる方法はありません。
裁きの最後の目的は、木曜日の学びに書かれていますが、この罪に満ちた世界の終わりを迎えることです。悪の勢力が打ち負かされます。
最後の裁きの三つの側面についてまとめましたが、裁きは神さまがなさること、わたしたちはキリストにつながっていることによって救われます。これしか罪から救われる道がありません。何回も書いていますが、神さまがなさる裁きのことを心配するのではなく、わたしたちができること、キリストの愛に信頼することこそが、裁きの備えとしてわたしたちができることなのです。