安息日学校部

20230104安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第4   イエスのための捧げ物   1月28日

 

暗唱聖句:「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。救いの杯を上げて     主の御名を呼び/満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。」          詩編 116:12~14

                                                                 

今週の聖句: 2 コリント 9:6、7、申命記 16:17、詩編 116:12~18、歴代誌上 16:29、 マルコ 12:41~44、マルコ 14:3~9

                                                                 

今週の研究:神の民の献げ物には、さまざまな種類がありました。神の恵みに対する応答としてささげられる罪の献げ物、神のお守り、健康、繁栄、そして神に支えられていることに対する感謝の献げ物などです。また、貧しい人々への献げ物や、礼拝の家を建てたり補修したりするための献げ物もありました。

教会は、どのような規模の教会であっても、私たちの献げ物を神の働きを前進させるために用います。今週、私たちは、地上における神の事業の管理の一環としての献げ物について、聖書がどのように言っているかを学びます。

                                                                 

日曜日:献げ物は、私たちが神のために自己犠牲を払うという意志の証拠です。それは深い霊的体験であり、私たちの人生が主なる神に完全にゆだねられているという事実の表れです。

献げ物は、常に最善を与え、私たちの必要を満たしてくださる人格を持たれた神を個人的に信頼する心から生まれます。私たちの献げ物は、私たちがキリストに救いの確証を見いだしたという確信に基づいています。それは神をなだめることでも、神に受け入れてもらうことを求めることでもありません。むしろ、私たちの献げ物は、信仰によってキリストを恵みと贖いの唯一かつ十分な手段として受け入れた心から、あふれ出るものです。

                                                                 

火曜日:聖書は私たちに礼拝行為の順序を示してはいません。しかし礼拝には少なくとも四つの行為が含まれます。新約聖書ではこのリストに、学び/説教、祈り、 音楽、什一と献げ物を挙げています。

年に三度、イスラエルの男子(とその家族)は皆、エルサレムで主の前に出なければなりませんでした。そして、「何も持たずに主の御前に出てはならない」(申16:16)のでした。言い換えれば、什一を神にお返しし、献げ物をささげることは礼拝経験の一部でした。過越祭、除酵祭、五旬祭、七週祭、仮庵祭のために、神の子らは什一と献げ物を携えて上りました。何も持たずにそれらの祭りに参加することは、考えにくいことでした。

つまり、古代イスラエルにとって、什一と献げ物をささげることは、彼らの礼拝経験の中心を成すものでした。礼拝、それも真の礼拝は、言葉と賛美と祈りで神への感謝を表すだけでなく、主の宮に献げ物を携えて行くことでも表すのです。彼らは献げ物を主の宮に携えて行きましたが、私たちは、(少なくとも 什一と献げ物をささげる一つの方法として)安息日に教会に携えて行きます。そして、それは礼拝行為なのです。

                                                                 

水曜日:どうやら、私たちの祈りが天で聞かれるだけでなく、私たちの献げ物の動機も注目されているようです。聖句は、コルネリウスは多くの施しをする人であったと記しています。コルネリウスの心は、献げ物と共にありました。なぜなら、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタ6:21)からです。彼は、イエスについてもっと知る準備ができていました。祈りと施しは、密接に結びついており、神と人々に対する私たちの愛、すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、 隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)という神の律法の二大原則を示すものです。第一は祈りによって、第二は施しによって明らかにされます。

                                                                 

金曜日:天の記録の書には、神の家族の経済的な忠実さについて記されています。「記録天使は、神にささげられ、天の宝庫に納められた献げ物の一つひとつについて、さらに、授けられた資産の最終的な使途を忠実に記録しています。神の目は、たといわずかでも神の働きのためにささげられた献金の一つひとつを、 そして、ささげた者が喜んで、あるいは不承不承ささげたかも注視しておられ、その動機を記録しています。神のものを、神が要求されたように神にお返しする、自己犠牲的で聖められた者たちは、彼らの行いに応じて報われるでしょう。 たとえ聖別された資産が誤用され、その寄贈者が期待した目的、すなわち、神の栄光と魂の救いという目的に叶わなかったとしても、心の底から誠実に、神の栄光だけのために犠牲を払った者たちは、その報いから漏れることはないでしょう」(『教会への証』第2巻518ページ、英文)

                                                                 

今週は「イエスのための献げもの」というタイトルで学びます。これは、献金はそもそも何なのかについて問いかけています。献金は自分のために、商売繁盛家内安全のためにささげるものではありません。もちろん神さまはわたしたちの献金が無いと何もできないわけではありません。けれども神さまはわたしたちの献げものを用いてくださることは確かです。

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)この聖句は、マタイが12弟子となった時に、イエスさまを招いて食事をした時に、取税人とともにいるキリストを非難する人たちにキリストが語った言葉です。正しいと思われる行為をすることを目的とするのではなく、困っている人や悲しんでいる人を助けるために何かをする、この動機が大切なのです。献金も金額や中身ではなく、どのような心から献げるのか、動機を問うているのです。

献金は、入れ物がまわってきたから入れるのではなく、お金と一緒に心や思いもささげです。だからこそ火曜日の引用文にもありますが礼拝行為なのです。その動機は神さまがわたしを愛してくださったから感謝の想いを、またこのささげもので福音が広められるように、そのような祈りとともにささげるものなのです。献金の時が来たからささげるのではなく、どのような想いでささげるべきなのか、今週は考えて行きましょう。