第13課 裁きの過程 12月24日
暗唱聖句:「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」 コリント 第二5:10
今週の聖句:マタイ 25:31~46、ダニエル 7:9~14、1 コリント 6:2、3、2 ペトロ 2:4~6、 マラキ 3:19( 4:1、口語訳)、黙示録 21:8
今週の研究: これらの最後の出来事が幕を開けるまで、私たちは与えられているすべての真理を信じる信仰に堅く立ち続けねばなりません。その真理には人間と死の本質も含まれます。私たちは、キリストが栄光のうちにおいでになる時に備えるために、聖霊の導きを求めなければなりません。今週の研究:聖書が明確に述べていることを一つ挙げるとすれば、裁きの事実があります。 神は世を裁かれます。裁きに関する記述は、旧約聖書にも新約聖書にも多数あり、疑いの余地はありません。今日の世界では、正義があまりに欠けていますが、 いつの日か必ず来るのです。
今週私たちは、世の終わりの裁きの主な三つの段階について学びます。すなわち、再臨前審判、千年期の裁き、そして執行審判の三つです。その過程全 体は、義人たちの擁護と悪人たちの第二の死をもって終わります。
月曜日:神の民の再臨前調査審判という概念は、三つの基本的な聖書の教えに基づくものです。
第一は、義人も悪人も含めて、すべての死者は、終わりの時の復活まで無意識のまま墓に留まるという概念(ヨハ5:25~29)です。
第二は、全人類におよぶ普遍的裁きの存在です(2コリ5:10、黙20:11~13)。
第三は、第一の復活は義人に対する祝福された報いであり、第二の復活は 悪人の永遠の死である(ヨハ5:28、29、黙20:4~6、12~15)という事実です。
これが意味するところは、全人類が裁かれるのなら、それぞれの復活に「先立って」裁かれるべきであるということです。なぜなら、その復活の際に、最後の報いを受けるからです。
火曜日:裁きの過程全体は、(1)神は被造物に対して不公平であるとのサタンの告発に対して神のご品性を擁護するため、(2)義人たちへの報いの公平さを確かなものとするため、(3)悪人への罰の正当性を立証するため、そして(4) 宇宙に再度反逆を引き起こす可能性のあるすべての疑いを葬ることを意図して います。義人たちの再臨前調査審判には、天使たちだけが関わります(ダニ7: 9、10)。しかし、悪人と堕落した天使たちの千年期の裁きには、聖徒たちも参加します(1コリ6:3、ユダ6、黙20:4~6)。
水曜日:執行審判は、人類史における神の最終的かつ不可逆的な懲罰的な裁きです。 制限的な執行審判はこれまでにも行われました。例えば、天から追放されたサタンと反逆した天使たち(黙12:7~12)、エデンの園から追い出されたアダムとエバ(創3章)、大洪水(創6~8章)、ソドムとゴモラの滅亡(創19章、ユダ7)、エジプトの初子の死(出11~12章)、そしてアナニアとサッピラの死(使徒5:1 ~11)などがあります。ですから、人類史の最後にも、悪人の執行審判があっても不思議ではありません。
木曜日:神は人間の歴史をその最終時代のクライマックスへと導いておられます。千年期の終わりには、すべての死んでいた悪人は墓からよみがえり、自分の行いに応じて最後の宣告を受けます(黙20:5、11~15)。こうして裁きのすべての過程が終わると、それ以上のことは何も起こりません。悪人たちは神の公正さを知ることになります。「大争闘のいっさいの事実が明らかになると、全宇宙は、忠誠な者も反逆者も、異口同音に、『万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります』と言明する」(『希望への光』1927ページ、『各時代の大争闘』下巻 457ページ)。「そして今、サタンはひれふして、自分の上にくだった判決が正しいことを認める」(同1926ページ、同456ページ)
今週は、わたしたちが永遠のいのちを受ける前に必要不可欠なさばきについて学びます。そのさばきは再臨前の裁き、再臨後の千年期の裁き、執行審判です。再臨前の裁きは天国へ迎え入れる人を確定します。ここではわたしたちのどのような働きをしたかを問うのではありません。わたしたちが自分たちの罪を認めて、十字架による救いを受け入れてキリストを救い主として信頼しているかが問われます。天国へ行ってから行われる裁きは、永遠のいのちを受けるか否かは決まってしまったあとに行う裁きです。かつても書きましたが、天国では三つのまさかがあります。①あの人がいる、②あの人がいない、③わたしがいる。天国では神さまが救われた者に、神さまの裁きが正しいことをお示しになるのです。そして最後の執行審判は、第二の死が執行されます。
再臨前の審判は続いていますが、戸が閉じられる日が来るのです。だから急いでと教えられてきました。けれども審判が終わるからではなく、毎日神さまの前に出て、自らの罪をゆるしていただくことが大切です。そのためには自らの弱さを認めなければなりません。なぜなら、わたしたちはいつ死ぬかわからないからです。その後から、悔い改めることはできないからです。審判は神様がなさること、わたしたちができるのは、日々罪を赦していただくように、信じてお祈りして行くことです。