第10課 地獄の火 12月3日
暗唱聖句:「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」 テサロニケ第一 5:21
今週の聖句:マルコ 9:42~48、マラキ 3:19(口語訳 4:1)、ユダ 7、1 テモテ 2:5、 使徒言行録 2:29、34、35、1 ヨハネ 5:3~12
今週の研究:不死の霊魂が地獄、または煉獄、あるいは天国に行くという基本的概念はカトリック教会の基礎となってい ます。多くの保守的なプロテスタントの教派も、霊魂は不滅であり、死後、天国に上るか地獄に下ると信じています。もし人間の霊魂が決して死なないのなら、肉体の死後、どこかに行かねばならないことになります。このように、人間の本質を誤った理解は、恐ろしい神学的な誤りを生んだのです。
今週私たちは、聖書の示す死後についての考えとともに、このような聖書的でない理論について考えます。
月曜日:悪人に対して永遠に続く罰という考えは重大な意味を持ちます。悪人が永遠に罰せられるのであれば、悪も永遠に消滅しないことになります。すべての人間の命が神に由来するのであれば(申32:39、詩編36:10〔口語訳36:9〕)、神は 「悪人が死ぬのを喜ばない」(エゼ33:11)はずです。ではなぜ神は、悪人が終わりのない責めに苦しむために命を与え続けられるのでしょうか。もし悪人たちが「彼らの行いに応じて」(黙20:12)罰せられるのであれば、なぜ人間の生涯は短くとも終わりのない罰を受けるのでしょうか。
聖書が言及する「永遠の火」は、黙示録20章の(第13課参照)千年期後の 「火と硫黄の池」に対する隠喩であると考えるべきです。このように、すでに存在し、永遠に燃え続ける地獄は聖書的な教えではないのです。
火曜日:煉獄の教理は、燃える地獄という観念や死者のために祈るという異教徒の習慣を結合させたものです。この教理は、聖書の次の教えを信ずる者たちにとっては受け入れられるものではありません。(1)死者は無意識のうちに墓の中で休んでいる(コへ9:10)。(2)1人の堕落した人間の義は他の堕落した人間に移されることはない(エゼ18:20~22)。(3)私たちの唯一の仲保者はイエス・キリストである(1テモ2:5)。(4)死の後には最後の裁きが続き、〔その間に〕地上の人生で犯した罪を悔い改めるチャンスは二度とない(ヘブ9:27)。
さらに、深刻な影響は、聖書に反する煉獄の教えが、神のご性質をゆがめているということです。「自身の堕落以来、サタンの働きは天父を誤解させることにある。彼は霊魂不滅の教理を提唱し……、永遠に燃える地獄という考えを生み出し、煉獄を発明した。これらの教えは神のご品性を曲解させ、神は厳しく、復讐に燃え、横暴で、決して赦さない存在であると主張する」(エレン・G・ ホワイト『原稿51』、1890年、英文)
木曜日:イエスの御言葉の光に照らすとき、この計画の全体がさらに明らかになります。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、 わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:40)。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(同11: 25)。
これは、永遠の命はキリストを通して与えられる神の賜物であり、それは現時点では約束されており、終わりの日の義人の復活の後にのみ完全に実現することを意味します。結論は非常に単純です。すなわち、永遠の命がキリストと結ばれた者のみに与えられるとすれば、キリストと結ばれていない者には与えられない(1ヨハ5:11、12)ということです。対照的に、霊魂の無条件の不死説は、天国であれ、地獄であれ、すべての人間に、キリストと結ばれていない者にも永遠の命を与えるものです。この教えは一般的ですが聖書的ではありません。
今週は、地獄があるのか、それとも無いのかについて学びます。キリスト教界において、それぞれの教会の特徴を伝える本の中で、アドベンチスト教会の特徴の一つに地獄を信じないと書かれます。この教えはどこからキリスト教会に入ってきたのでしょう。火曜日の引用文の冒頭にありますが、初代教会が迫害を受けながらも成長をしました。ローマ帝国はキリスト教の抹殺をあきらめて国教として行きます。その中で日曜崇拝やクリスマスが12月25日などの教えが入ってきたのでした。そのような中の一つとして地獄と煉獄という教えが入ってきたのです。たしかに聖書の中に地獄と書かれている言葉はありますが、それは詩的な表現や比喩などであり、死後は再臨まで眠っているという教えとは矛盾しているのです。ましてや煉獄は、言葉すらありません。けれども、生きている人間は、死んでしまった祖先のために何かができると言われたら、今までの罪滅ぼしにと思ったり、苦しんでいる祖先をお金で助けることができるのであればと考えて、祖先供養をするのです。これはキリスト教に限らず仏教でも同じ思想があります。悪魔は、人の弱さを付いて来るのです。
わたしがブラジルで働いていた時に、日本からの移民の方々はもともと持っていた宗教を信じ続けている方もいましたが、カトリックに改宗された方も多くいらっしゃいました。お話しをうかがうと「観音様をマリヤさまに変えて、お祈りすれば地獄から救われることも同じで、極楽と天国のちがいだって似たようなもの、だからブラジルで暮す以上、この国の神さまを信じることにしたのです」と話される方がいました。
多くの宗教は、人間の願望からできあがってきています。勧善懲悪のため、死んだら行ないの悪かった人は地獄へ送られる、これで正直者が馬鹿を見るような世界が精算されると考えます。またいつまでも苦しみ続けるのではなく、やがて煉獄へ行き、そして天国へと多少遠回りしてでも天国へ行ければ、それなりの希望ともあるのです。このように人間の願望を満足させる教えが地獄や煉獄なのです。悪魔は巧みに聖書の教えから誤謬を植え付けているのです。
人が死後に精進?して天国へ行くのではなく、キリストの十字架以外には救いを与えるものはありません。今週の暗唱聖句は、わたしたちが教えをしっかりと吟味して、そして良いことを大切にするように勧めているのです。