第9課 死に対する 11月26日
暗唱聖句:あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」 ヨハネ 5:39
今週の聖句:ルカ 16:19~31、ルカ 23:43、ヨハネ 20:17、フィリピ 1:21~24、1 ペトロ 3:13~20、 黙示録 6:9~11
今週の研究:今週私たちは、人々が霊魂の無条件の不死を正当化するために用いる、いくつかの興味深い聖句を学びます。これらの考察は、私たちの確信を強めるものであり、この非常に重要な教えを疑問視する人たちに、親切に応える助けとなるはずです。
日曜日:ジョージ・E・ラッドはアドベンチストではありませんが、このたとえ話はおそらく、「現在のユダヤ思想を利用したたとえ話であり、人間の死後の状態について何かを教えるためのものではない」(「終末論」『新聖書辞典』388ページ、英文)だろうと述べています。
金持ちとラザロのたとえは、着飾った「金持ち」と「ラザロというできものだらけの貧しい人」(ルカ16:19、20)との対照を鋭く描いています。この物語は、(1)現世の地位や社会的名誉は将来の報いの条件ではないこと、(2)各人の永遠の運命はこの世の生き方によって決まり、それを死後の世界で覆すことはできないこと(同16:25、26)を教えています。
火曜日:パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたい」(フィリ1:23)との熱い思いを語りましたが、それは死後、肉体を離れて魂が意識だけでキリストと共に生きることを意味したのでしょうか。まったく違います。この聖句の中で、 パウロは、現在の悩み多き存在から離れてキリストと共にいたいとの願望を、この二つの出来事の間に起こりうる時差については何も触れずに、言及しているのです。この聖句は、パウロが死んだ時に天に行くことを望んでいたとは教えていません。彼は、再臨の時まで報いを受けることはないと非常に明確に述べています(2テモ4:8)。
要するに、パウロが、「(死んで)この世を去って次に知ることは、死者をよみがえらせるためにキリストが天の雲に乗っておいでになる光景であり、その時『主と共にいる』(1テサ4:17)ことでした。時に、聖書記者たちが、長い期間を隔てるであろう二つの出来事を一緒に言及していることに注意をむけるべきです」(『アンドリュース・スタディー・バイブル』1555ページ、英文)。
しかし、なぜパウロは生きることよりも死ぬことを望んだのでしょうか。それは、〔死ねば〕もはや彼の肉体を苦しめた痛みを感じることもなく(1コリ9: 27)、すべての悩みから解放されて休めるからです。さらに、再臨の時に「義の冠」(2テモ4:6~8)を受けるとの揺るがぬ確信を持っていたためなのです。パウロは間違いなく死を望んだのではなく、死の先にあるものを見ていました。
木曜日:祭壇の下の「魂」もまた象徴的です。これを字義通りに読めば、殉教者たちはまだ復讐を求めて叫んでいることになり、天で幸せに暮らしてはおらず、救いの報いを楽しんでいるとは思えません。
さらに、重要なことは、ヨハネは実際の天の様子を見せられてはいないということです。「そこには武装した騎手を乗せた白い馬も、赤い馬も、黒い馬も、 青白い馬もいない。そこにイエスは、ナイフで傷つき血を流す小羊の姿では現れない。四つの獣は、実際に動物の特徴を持った翼のある生き物の姿をしてはいない。……同様に、天の祭壇の下に『魂』はいないのである。この情景全体は、絵画的、象徴的表現である」(『SDA聖書注解』第7巻778ページ、英文)
今週は、新約聖書の中に、霊魂不滅を教えているように読める聖句について学びます。その中で最も有名なのは金持ちと乞食ラザロの話しでしょう。この物語が事実だったら、来週学ぶ地獄の存在についても関係してきます。
聖書を読む時に解釈が必要な個所があります。今回の学び以外でも、当時では一般的な寓話などを用いて説明していると思われる個所があります。当時の人たちには、最もわかりやすい方法だったのかもしれませんが、今日のわたしたちがそのまま読むと意味がわからない場合があるために解釈が必要となります。
聖書を読む公式として、わたしは神さまは創造主であることを第一にあげていました。そして死んだら再臨の時までは眠りについていること、救いはキリストの十字架を信じることなどの原則と、聖書の中で意味がわからない個所を照らしあわせてみることです。この原則と一致しない場合は、その物語などをそのまま読むのではなく、説明するために寓話を用いたり、詩的な表現だったりしている場合が多いので、自分で答えを見つけるのではなく、注解書などを用いて背景などをしっかりと調べてから解釈をすることが大切です。
今期の学びは、永遠のいのちについてですが、未来の約束と同時に、霊魂不滅などのまちがった教えについても、特に世の終わりになると多く語られるのでしっかりと学ぶように教えられています。預言がどのように成就して行くのかわかりません。だからこそ聖書のことばをしっかりと読んで神さまの愛に信頼して行きましょう。