安息日学校部

20220405安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第5   十字架以前の復活   10月29日

 

 

暗唱聖句  「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 ヨハネ 11:25、26、

                                                                 

今週の聖句  ユダ 9、ルカ 9:28~36、列王記上 17:8~24、ルカ 7:11~17、 マルコ 5:35~43、  ヨハネ 11:1~44

                                                                 

今週の研究  旧約聖書の復活に関する記述は、これまで学んできたように、個人的な期待 (ヨブ19:25~27、ヘブ11:17~19、詩編49:16〔口語訳49:15〕、詩編71:20)と将来の約束(ダニ12:1、2、13)に基づいて言及されています。しかしながら、私たちは、実際に死からよみがえった人々の記録を見ることができます。

今週私たちは、キリスト自身の死と復活以前に起きた復活についてより詳しく学びます。

                                                                 

日曜日:申命記34:5~7は、モーセは120歳で死に、主は彼をモアブの地の隠された場所に葬られたと述べています。しかし、モーセは墓の中にそれほど長い間は留まりませんでした。「モーセを埋葬したみ使いたちを従えて、キリストご自身 が天からおりてこられ、眠りについた聖徒を呼び起こされるのであった。……

このときはじめて、キリストは、死者に命を与えようとしておられた。いのちの君と輝く天使たちが墓に近づくと、サタンは自分の主権が脅かされるのを感じた。……キリストは、サタンと論争しようとはされなかった。……だが、キリストはすべてを天父にゆだね、『主がおまえを戒めて下さるように』と仰せになった(ユダ9)。……永遠に復活が確かなものとされた。サタンは自分のとりこを奪われ、死んだ義人はふたたび生きることとなった」(『希望への光』248、249ページ、『人類のあけぼの』下巻95、96ページ)。

モーセの復活の明らかな証拠は変貌の山に見られます。そこにはモーセが、 死を見ずに移された預言者エリヤ(王下2:1~11)と共に現れました。モーセとエリヤはイエスと語り合いさえしました(ルカ9:28~36)。「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:30、31)。モーセの姿は、キリストの来るべき罪と死に対する勝利の証拠として、誤ることのない言葉で描写されています。それは、イエスの前に現れたモーセとエリヤであって、彼らの「霊」ではありませんでした(何しろ、エリヤは死んでいなかったのですから)

 

                                                                 

火曜日:フェニキア人のやもめ(王上17:8~24)とシュネムの婦人(王下4:18~37)は、それぞれエリヤとエリシャに助けを求めました。しかし、ナインのやもめは願うことさえせずに助けられました。これは、私たちが神に助けを求めることができないとき、あるいは求めても無駄だと感じるときにも、主が私たちを顧みてくださることを意味します。イエスは問題をご覧になると対処されました。─それはあらゆる働きにおいて、いかにもイエスらしいことでした。

                                                                 

水曜日:イエスの十字架以前の復活は、特定の民族や社会的階級の人々に限定されませんでした。モーセは、おそらくこれまでの神の民の中で最も偉大な指導者でした(申34:10~12)。対照的に、貧しいフェニキアのやもめは、イスラエル人でさえありません(王上17:9)。シュネムの婦人はその地域では裕福でしたが(王下4:8)、同じようにヘブライ人ではありませんでした。ナインのやもめには1人息子がいて、おそらく彼女はその息子を頼りにしていたことでしょう (ルカ7:12)。一方で、ヤイロは、会堂長であり、おそらくカファルナウムに住んでいました(マコ5:22)。文化的背景や社会的地位はそれぞれ異なりますが、 彼らは皆、神の命を与える力によって祝福されたのでした。

                                                                 

木曜日:聖書は、神の御言葉によって命は創造され(詩編33:6)、御言葉によって命はラザロのように再創造されると言います。短い祈りの後に、イエスは、「ラザロ、出て来なさい」(ヨハ11:43)とお命じになりました。その時、そこにいた人々は、神の命を与える力を見ます。それは、この世界を創造した力と同じものであり、世の終わりの時に、復活し死者を生き返らせる力と同じものなのです。

ラザロのよみがえりによって、イエスは死を打ち負かす力をお持ちであることを証明されました。死から逃れられない存在である私たちにとって、これ以上大きな神の栄光の現れがあるでしょうか。

                                                                 

今週は、旧約聖書からキリストの十字架までの、聖書に記録されている復活について学びます。モーセ、フェニキヤ人のやもめの息子、シュネムの女の息子、ナインのやもめの息子、ヤイロの娘、ラザロです。愛する家族を失うことは辛く悲しいことです。場合によっては経済的な支えを失うかもしれません。このような時に、最もよろこばしいのは死んだ人がよみがえることです。そして多くの人が同じことを神さまに願った事でしょう。けれども、旧約聖書からキリストの十字架まで、記録に残っているのはこの方々だけです。彼らが信仰が深かったので復活したのか、それとも人種や立場などで選ばれたわけでもありません。残念ながらわたしたちは、その理由はわかりません。ただ一つはっきりとしているのは、神さまがお選びになったのです。

もう一つ、彼らは仮死状態で、そこからよみがえったので、聖書の記録はまちがっていると考える人がいます。わたくしごとになりますが、父が死んだのは2月でしたが、火葬場が混んでいて告別式まで一週間時間が空いてしまいました。葬儀社の方が毎日来て、父のお棺のドライアイスを交換に来てくれました。シャロームではインドネシアからのアドベンチストの青年たちが働いています。これまで3名の家族が亡くなりました。インドネシアは赤道直下で埋葬は土葬です。そのため、亡くなられたら翌朝には埋葬をしてしまいます。日本では冷蔵の技術なのが進んでいるので死体が腐敗することを意識しませんが、何もしなかったら腐敗が進んでしまうのです。ラザロの死後4日目だったら、腐敗も始まっていたことでしょう。そこでの復活は、神さまが創造者であることを示す時となったのです。復活の記録は、わたしたちにも再臨の時に同じようによみがえらせていただくことができる約束です。