第4課 旧約聖書の希望 10月22日
暗唱聖句 「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。……アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 ヘブライ 11:17、19
今週の聖句 ヨブ記19:25~27、1テモテ6:16、詩編49編、詩編71編、イザヤ26:14、19、ダニエル 12 章
今週の研究 もし神が、最初に地上に無から(ラテン語で「エクス・ニヒロ」) 生命を創造することがおできになったのなら、私たちは、人間を再創造し、そのあるべき姿に回復させる神の力をどうして疑えるでしょうか。
今週私たちは、旧約聖書の時代に、最終的な復活の思想がどのように解き明かされたかを、特にヨブと詩編記者の言葉、そしてイザヤとダニエルの預言に焦点を当てて考えます。
日曜日:ヨブは、彼が神とサタンの間の根深い宇宙的争闘の中心にいることを知りませんでした。それらの闘いに苦しめられながら、ヨブは自らの誕生を悔やみ、生まれてこなければ良かったのにと自らの誕生をのろいます(ヨブ3:1~26)。 それでもなお、彼の神への無条件の忠誠は次の言葉の中によく表されています。 「見よ、彼はわたしを殺すであろう。……しかしなおわたしはわたしの道を/彼の前に守り抜こう」(同13:15、口語訳)。ヨブは、自分の命がまもなく終わることを予測しながら、死んで終わりではないという確信を持ち続けていました。 ヨブは強い確信を持って、自分は死んでも、いつの日か贖い主は立ち上がってくださり、自らは肉体を伴って神を仰ぎ見るだろうと述べています(同19:25~ 27)。「これは紛れもなく復活を垣間見ることです」(『SDA聖書注解』第3巻549 ページ、英文)。
これほどの悲劇のただ中にあって、なんという輝かしい希望でしょう。病と痛みに覆われ、経済的に破綻し、社会的に非難され、感情的に打ちのめされてなお、ヨブは、死からよみがえり、贖い主を仰ぎ見るその日を待ち望んでいたのです。事実、ヨブの復活についての言葉は、何世紀も後にマルタがイエスに言った言葉と同じ確信に満ちています。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(ヨハ11:24)。ヨブはマルタのように、信仰によってこの約束を確かなものにしなければなりませんでしたが、ヨブと違ってマルタは、すぐに死者の復活を目当たりにすることになったのでした。
月曜日:両者の間には根本的な違いがあります。一方の愚かな者は、永遠には続かない富や功績に安心感を得ようとしながら、滅びます。対照的に知恵ある者は、 人間の武勇伝や陰府という牢獄を越えたところにある神が用意してくださった 輝かしい報いに目を留めます(1ペト1:4)。この違いのゆえに、詩編記者は確信を持って「しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(詩編49:16〔口語訳49:15〕)と言うことができたのです。
旧約聖書の希望と一致してこの聖句は、死んだときに魂がすぐに天国に飛んで行くことを示唆していません。詩編記者は、人は永遠に墓に留まることはないと言っているだけです。神は、人を死から贖い、天の宮廷に連れて行ってくださる時が来るというのです。
未来の復活の確かさが、希望と平安、そしてこの世に生きる意味をもたらします。ですから、知恵ある者は、この世で愚かな者が自分で集める物よりも、 はるかに輝かしい永遠の報いを受けとることができるのです。
木曜日:これまで学んだ旧約聖書の聖句(ヨブ19:25~27、詩編49:16〔口語訳49:15〕、 詩編71:20、イザ26:19)は、すべて義人の復活について語っています。しかし ダニエル書12章は、義人と悪人の両方の復活について述べています。ミカエルが立つとき、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(ダニ12:2)のです。
この聖句は、キリストが戻られるときに起こる特定の人々の(義人だけでなく、 悪人もいる)特別な復活について述べていると、多くの人々が見なしています。
まず最初に今週の暗唱聖句を読んでください。ヘブライ11章はご存じの通りに旧約聖書の信仰の偉人列伝です。その中でいちばん多くのことが書かれているのがアブラハムです。カルデヤのウルを出たこと、そして息子イサクをささげた場面についてヘブライ11章には書かれています。今週の暗唱聖句は、息子をささげる時の彼の想いが書かれています。アブラハムがウルを出た時も、息子をささげようとした時も、どちらも神さまのことばを信じてゆだねました。ウルを出てどうなるか、息子を殺した後に、神さまの約束の実現がどうなるのか、神さまは語っていません。けれども彼は必ず神さまが導いてくださるから開かれた道を進もうとして、結果を神さまにおゆだねしたのです。今週の暗唱聖句は、アブラハムが息子を殺そうとした時に、その後にすぐに復活をさせてくださると信じていたと読もうとすればできないことはありませんが、それは神さまがお決めになることです。彼はここで愛する息子と別れても天国での再会を信じていたと、この聖句は読むべきでしょう。
この希望の基にあるのは、神さまが最善のことをなさってくださるから、おゆだねするという信仰と、もうひとつは神さまが天地の創造者で無から有を創造できる方であるという信仰です。アブラハムの時代に、天国の希望について伝えられていたとしても、現代の時のようにその時が近いということは教えられていなかったと思われます。今日のわたしたちは、生きてキリストをお迎えするかもしれないという希望がありますが、彼らは必ず死なねばなりませんでした。そして肉体は滅びて行きますが、神さまは無になった人間を再び創造する力があることを信じることによって、おゆだねすることができたのです。