安息日学校部

20220403安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第3   人間のほんs   10月8日

 

 

暗唱聖句  「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 創世記 2:7

                                                                 

今週の聖句  創世記 1:24~27、創世記 2:7、19、マタイ 10:28、コヘレト 12:1~7、 列王記上 2:10、 列王記上 22:40

                                                                 

今週の研究  聖書に基づくクリスチャンとして私たちは、人を創造された全能の神だけが、私たちを完全に知っておられる(詩編139 編参照)お方であることを理解しなければなりません。ですから、聖書の中にのみ、私たちはこれらの重要な問いの答えを見いだすのです。

今週、私たちは、旧約聖書が人間の本質と人類の死の状態をどのように定義しているかを学びます。

                                                                 

月曜日:この警告は繰り返され、主はエゼキエル18:4、20(口語訳)で、「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と念を押されました。この言葉には二つの主要な意味があります。一つは、すべての人間は罪を犯したので、私たちは皆避けがたい老いと死の過程にある(ロマ3:9~18、23)ということ。もう一つは、この聖書的概念は、人の魂がもともと不死であるとする観念を無効にするということです。もし魂が不死であり、死後、別の世界で生きて存在するなら、結局私たちは本当の意味で死なないということにならないでしょうか。

これとは対照的に、死という難問に対する聖書の回答は、肉体のない魂が、 天国や煉獄や、あるいは地獄へ移るというものではありません。イエスが命のパンに関する教えで語られたように、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」(ヨハ6:40)なのです。

                                                                 

水曜日:死後無意識になるという聖書の教えは、クリスチャンにいかなる恐れも起こさせるものではありません。第一に、救われずに死んだ人には、永遠に燃える地獄も一時的な煉獄も待っていないのです。第二に、キリストにあって死んだ者には、驚くべき報いが待っています。「信じる者には、死は小事にすぎない。 ……クリスチャンにとって死は眠り、一瞬の沈黙と暗黒にすぎない。生命はキリストと共に神のうちにかくされ、『キリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう』(コロサイ3:4)」(『希望への光』 1092ページ、『各時代の希望』下巻318ページ)ことは不思議ではありません。

                                                                

木曜日:もう一つの死の描写は、先祖と共に眠りについたというものです。ダビデ王の死について、聖書は、「ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた」(王上2:10)と言います。同じ表現が、忠実な王にも不忠実な王にも、何人かの他のヘブライの王たちにも用いられています。

先祖たちと共に眠りにつくことについて、少なくとも三つの重要な意味があります。第一は、遅かれ早かれ、人は骨の折れる仕事や苦しみを離れて休むべき時を迎えるという考えです。第二に、私たちはそのような望まぬ道をたどる最初の人間でも、唯一の人間でもないということです。先祖たちもすでに経験したからです。第三に、先祖たちの近くに葬られることによって、私たちは死んで無意識であっても1人でなく、彼らと共にいることができるということです。このことは、現代の個人主義文化にとってはあまり意味を持たないかもしれませんが、古代においては、非常に意味のあることでした。

キリストにあって死んだ者たちを、彼らの愛した者たちと共に葬ることはできますが、彼らが互いに意思を通わすことはありません。彼らは、深い眠りから目覚め、キリストにあって死んだ愛する者たちと再会する栄光の日まで、無意識のままなのです。

                                                                

今期の学びは、永遠について学びますが、永遠のいのちについて考えるためには、その対極にある死について学ばねばなりません。今週は、旧約聖書に書かれている「死」について学びます。月曜日の学びで魂は死ぬと聖書の中には書かれています。先週も書きましたが、死んですぐに天国へ行くとしたら、天国へ行けない人はどうなるのでしょうか。地獄へ落されて苦しむのか、そこまで悪くなくても天国の標準には届かない人は煉獄で練り清められるのでしょうか。いつまでも地獄や煉獄で暮すのではなく、時間がかかっても天国へ行けるとしたら、それは福音なのかもしれません。けれどもそれは自分たちが地獄や煉獄で努力をするのか鍛錬を積み貸させて天国は入ることにもなるのです。聖書は、キリストの十字架を信じること以外に救いは無いと書かれています。地獄や煉獄の教えは、この救いの原則にも反します。ましてや徳を積むことや巡礼などの行為によって救われるのでもありません。死は眠りであり、そしてすべての地上での苦しみからの解放という聖書の教えは、罪を犯して死ななればならない人間にとって一番幸せな道なのです。

何度も書いていますが、明日すぐに再臨が来るかはわかりません。これは父なる神さまがお決めになることですが(マタイ24:37参照)、預言を見る限り再臨までにまだ成就しなればならないことがあるようです。けれどもわたしたちは再臨まで生きている保証はありません。死んだら、次に目を覚ます時は再臨なのです。だから再臨は明日来るかもしれません。わたしたちは死について考える時に、いつかわからないけれど死は必ずやってくるということを認めると同時に、その次にある希望についてもしっかりと学び、信じて行きたいものです。