第2課 罪と世界における死 10月8日
暗唱聖句 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」 ローマ 5:12
今週の聖句 創世記 2:16、17、創世記 3:1~7、詩編 115:17、ヨハネ 5:28、29、 ローマ 5:12、2 コリント 5:21
今週の研究 今週私たちは、アダムとエバの堕落を通して、罪と死がどのように私たちの世界を支配し、神がエデンで人類のためにまかれた希望の種について学びます。
日曜日:人間の論理で考えれば、蛇の言うことは、神が言われたことよりもずっと説得力がありました。第一に、それまで自然界には罪と死の存在についての証拠は何もありませんでした。第二に、蛇は実際に禁じられた実を食べ、それをとても楽しんでいました。それなのに、なぜエバは同じようにしてはいけないのでしょうか。神のご命令はあまりに厳しく、無意味に思われました。
不幸なことに、二つの相反する言葉の間で決断するにあたって、エバは次の三つの基本的な原則を無視しました。(1)人間の理性は霊的なことがらを評価するにあたって必ずしも安全では無いこと。(2)神の言葉は、私たちには非論理的で無意味に見えても常に正しく信頼できること。(3)それ自体は悪でも罪でもないことを神は服従のテストとしてお用いになられること。
私たちは、エデンの園でのエバの経験は、その時1回限りのものではないということを理解する必要があります。日々、一瞬一瞬、私たちは(多くの人にとっては馴染みのないものかもしれない)神の言葉か私たちを取り巻く誘惑かを選ばなければなりません。そして、その選択には永遠の結果が伴うのです。
火曜日:霊魂はもともと不滅であるというサタンの主張は、現代社会にも根強く残っています。書籍、映画、テレビ番組はすべて、私たちが死んだとき、別の意識を持つ状態に移行するという考えを広め続けています。残念なことに、この誤りが多くのキリスト教会の講壇からも語られています。科学でさえその影響を 受けており、「脱物質後の人間」としてまだ生きている死者と交信する技術を開発しようとしている財団がアメリカにはあります。まん延するこの誤りが、人類史の最後の諸事件の中で重要な役割を果たすことは、驚くにあたりません。
水曜日:蛇の巧みな言葉に捉えられて、エバは、自らの歩む道のはるか先にどのような結果が待ち受けているか予想することはできませんでした。禁じられていた実を食べるという、実際に目に見える行為そのものは、それほど重要ではありませんでした。そのような不服従の行為によって、エバは神への忠誠を棄て、 サタンに対する忠誠を新たに誓ったのです。
創世記3章はアダムとエバの堕落とその最も悲劇的な結果を描いています。 神学的には、二人は「神恐怖症」(神を恐れること)に襲われ、神から隠れまし た(創3:8)。心理社会的評価から言えば、彼らは自分自身を恥じ、お互いを非難しました(同3:7、9〜13)。肉体的には、彼らは汗し、苦痛を感じ、最後には死ぬのでした(同3:16~19)。さらに生態学的に言えば、自然界はその姿を変えました(同3:17)。
木曜日:主は次に、このメシア到来の約束を指し示すために、動物による犠牲をお用いになりました(創3:21参照)。「神の特別な指示によって、アダムが罪のための犠牲を献げたとき、それは彼にとって最もつらい儀式であった。彼の手は、罪の犠牲とするために、神だけが与えることのできる命を奪うために上げられねばならなかった。それは彼が最初に見届けた死であった。彼が血を流し、死の痛みにもだえ苦しむ犠牲の動物を見上げたとき、彼は信仰によって、犠牲が予表する、人類の犠牲として死ななければならない神の御子を見るのであった」(『贖いの物語』50ページ、英文)。(2コリ5:21とヘブ9:28参照)
アダムとエバは、いずれ死ぬことを知りながら(創3:19、22~24)、エデンの園を後にしました。しかし、彼らは裸で、あるいは自分たちで作ったいちじくの葉を覆って(同3:7)園を出たのではありませんでした。神ご自身が、彼らのために、キリストの義の衣を象徴する(ゼカ3:1~5、ルカ15:22)「皮の衣を作って着せられた」(創3:21)のでした。その当時、つまり、最初から、エデンにおいてさえ、福音は人類に啓示されていたのです。
今週は、神さまが最初に創造されたアダムとエバが悪魔の誘惑に負けてしまう場面について学びます。日曜日の学びにおいて、エバがどのような考えて、神さまよりも悪魔の声を選んでしまったか書かれています。大切なのはわたしたちも神さまから自由があたられているので、同じように神さまと悪魔のあいだにあって毎日選びを行なっているのです。日曜日の引用文の最後に「その選択には永遠の結果が伴うのです。」ととても厳粛な言葉で終わっています。天国はわたしたちの力で入れていただくものではありませんが、わたしたちが何を大切して生きるのか、その結果でもあるのです。
火曜日の学びでは霊魂不滅について書かれています。プロテスタントのキリスト教会においても、死んだらすぐに天へ帰ると信じている人がいます。聖書にははっきりと死は眠りと書かれています。キリストも死んでいる人を、再び目を覚ますようによみがえらせています。もし死んで天国へすぐに行ったらどうなるでしょう。天国で暮すことは地獄のように辛いことになります。それは地上で続く醜い争いを見続けねばなりません。また家族がまちがった選びをするのを見ているだけで何もできないのです。死ぬことによってこの世の戦いを終えて、やすらかに眠るのです。けれども眠り続けるのではありません。キリストが再びおいでになる時に、神さまを信じるわたしたちはよみがえるのです。