安息日学校部

20220312安河内アキラ解説

2022年第3期「試練を共にされるキリスト」

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第12   一粒の麦のように死ぬ   9月17日

 

 

暗唱聖句  「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままで ある。     だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 ヨハネ 12:24

                                                                 

今週の聖句  フィリピ 2:5~9、ローマ 12:1、2、サムエル記上 2:12~3:18、               サムエル記上 13:1~14、ゼカリヤ 4:1~14

                                                                 

今週の研究 イエスの1粒の麦の死の描写は、神の御心に従順であることの見事な比喩です。まず、種は地に落ちます。麦の穂から地に落ちる種は、どこに、どのように落ちるかを自分で決めることはできません。種は自分を取り囲み、そして攻め寄せる土を選ぶことはできません。

次に、種は待ちます。地上に落ちた種は自分の未来を知りません。種はその身にどのような未来が待っているかを「想像すること」もできません。ただ1粒の麦の種にすぎないからです。

三番目に、種は死にます。種は自分の安全と、1粒のままでいる快適な状態 を放棄しない限り、穂になることはできません。「死」ななければならないのです。つまり、1粒の種が豊かに実る穂に変えられるためには、それまでの自分を放棄しなければならないということです。

                                                                 

月曜日:ローマ12:1、2を読んでください。パウロは、私たちは次の条件を満たすとき、「何が神の御心であるか……をわきまえるようになる」と述べています。

1.「神の憐れみ」について正しく理解すること(同12:1)

2.自分を生きた供え物として神に献げること(同12:1、口語訳)

3.心を新たに変えていただくこと(同12:2)

神の御心を真に理解できるのは、新たにされた心だけです。しかし、心が新たにされるためには、まず自己に死ぬことが条件になります。キリストが私たちのために苦しむだけでは不十分でした。彼は死ななければならなかったのです。

 

私たちの生活の中に、完全に自己に死んでいない部分があるとき、神は私たちの注意をそこに向けるために試練をお許しになります。しかしながら、供え物はただ私たちを罪に対峙させるだけでなく、私たちにイエスの自己犠牲に対する洞察を与えます。エリザベス・エリオットは次のように書いています。「私たちが心底熱望するものを放棄するということは、おそらく私たちが十字架の理解に近づくほどに達せられることなのでしょう、……私たちの十字架の経験は救い主のそれに比べればあまりに小さいものではあるが、にもかかわらず、主の苦しみを共にすることは、主を知る機会へと私たちを導くのです。どのような形であれ、私たちの苦しみの一つひとつは、主と同じ十字架の経験への召しなのです」(エリザベス・エリオット『愛を探し求めて』182ページ、英文)。

                                                                

火曜日:あなたは静かで小さな聖霊の御声を耳にしながら、それを無視したことがありますか。その結果すべてがうまく行かず、後で自分に次のようにつぶやいたことはないでしょうか─「なんてことだ。あの時、なぜ聞かなかったのだろう」

初めにサムエルは、ある老人と主の御声を聞かなかったよこしまな2人の息子と、御声を聞いた少年の物語を語ります。神からの強い警告にもかかわらず、彼らは自分のふるまいを改めねばならなかったのに、そうしませんでした。

                                                                

金曜日:神の御心に対する従順は、私たちが欲望や野心に死ぬことから生まれます。 これが他者に対する真の奉仕の道を開きます。私たちは、供え物となること、そして絶えず神の御声に心を開くことなしに、神のために生きることはできません。私たちの意思を真に神の御心に従わせるためには、自分を頼みとすることと、神の言葉と力の代わりのものに頼ることの危険を知る必要があります。神の御心に従順であることは、キリストのような生き方の核心なので、神は私たちが神に依存することを学ぶために試練をお許しになるのです。

                                                                 

今期の学びを続けながら、残念ながらこの世には苦しみはあります。わたしたちは問題をどのように解決しよう、苦しみから逃れようとばかり考えてしまいます。けれども苦しみには原因があり、わたしたちがまいた種を刈り取らねばならない時もあります。そしてもうひとつ大切なことは金曜日の引用文にありますが「 神の御心に従順であることは、キリストのような生き方の核心なので、神は私たちが神に依存することを学ぶために試練をお許しになるのです。」と書かれています。神さまはわたしたちに苦しみを通して成長をするように導かれてもいるのです。

先日、かつて覚せい剤を所持して逮捕された方が、「逮捕されるまで何回も止めるチャンスがあったけれど、堕ちるところまで堕ちないと気づけなかった」と語る新聞記事を見ました。その理由として、自分だけは見つからないという妙な過信があって、まわりの忠告などを聞けなかったと語っています。正しい道へ導こうとする光が届いても、本人がそれに従おうとしなければ、道は変わらないのです。

金曜日の引用文に神さまのみこころは「わたしたちが供え物となること」と書かれています。これはどのようなことでしょう。わたしたちは神さまからいのちを与えていただいて生きていると信じています。与えられたいのちをどのように用いるかはわたしたちにまかされています。神さまは、このいのちをまわりの人々の幸せのために用いるようにと聖書を通してわたしたちに語りかけています。このような生き方ことが、神さまの供え物となることではないでしょうか。そのような生き方をするためには「神の御心に対する従順は、私たちが欲望や野心に死ぬことから生まれます。 」とあります。苦しみを通して、神さまはわたしたちに神さまのみこころへの従順を学ばせようとしているのです。