第10課 試練における柔和 9月3日
暗唱聖句
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 マタイ 5:5
今週の聖句
エゼキエル 24:15~27、出エジプト記 32:1~14、マタイ 5:43~48、
ペトロ第一 2:18~25、詩編 62:2~9(口語訳 62:1~8)
今週の研究 苦しみと柔和の関係はどのようなものでしょうか。私たちの柔和と砕かれた経験によって、私たちはどのように他者に対して証人となれるのでしょうか。 クリスチャンにとって柔和は弱さとはならず、どのようにして本当の意味で強さになり得るのでしょうか。
月曜日:民が金の雄牛を拝み始めた後、神は、あまりに遠く離れてしまった彼らを滅ぼし、モーセを大いなる民とすることを宣告されます。しかし、モーセは神の申し出を聞き入れず、神に民のために恵みを嘆願し、神は思いとどまられます。
出エジプト記32:1~14は二つの重要な問題を提起しています。第一に、反抗する民を滅ぼし、モーセを祝福するとの神の申し出は、彼に対する試みでした。神は、このどうしようもない不服従の民に対して、彼がどれほどの同情を示すかを試されたのでした。そしてモーセはこの試験に合格しました。
第二に、反対と不服従は恵みを引き出すための呼び水です。恵みは、それを受けるに最もふさわしくない人々が必要とするものですが、最もふさわしくない人々は、私たちにとっても最も恵みを与えたくない人たちであるはずです。 しかしモーセの姉のミリアムが彼を非難したとき、彼は彼女の重い皮膚病の癒しを主に嘆願します(民12章)。翌日、イスラエルが、反逆する者たちの死と神が彼らをみな滅ぼすと言われたことに対してモーセに再び不平を言ったとき、モーセは顔を伏してアロンに彼らのために急いで贖罪を行うように命じました(同16章)。この試練の中で、モーセは柔和と無我をもって、まったく受けるにふさわしくない者たちのために恵みを求めたのでした。
火曜日:イエスは、私たちにつらく当たる人たちに対して、いつでも生ぬるい曖昧な感情を持つようにと言っておられるのではありません。それも可能かもしれませんが、基本的に、敵を愛するとは、彼らに対する感情を意味するのではなく、彼らに対する気遣いと配慮を示す行為を意味します。
イエスはこの教えの結論として、しばしば多くの物議を醸かもす次の1節をお語りになります。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタ5:48)。しかしその意味は文脈から明らかです。神が完全であるように完全でありたいと望む者は、神がその敵に愛を示されるように、自分の敵に愛を示さねばならないというのです。神の目に完全であるということは、敵対する者を愛することです。そしてそのように愛するためには、神のみが与えることのできる心の柔和が必要です。
水曜日:人がだれかを不当に扱うのを見るのはつらいことです。さらに、そのような扱いをその場で最後まで見届けねばならないとしたら、それは耐えがたい苦痛です。不当な行為が行われるとき、私たちの内にある正義感と義憤は、本能的 に「悪を正そう」とします。
しかしこのように生きることは簡単ではありません。重大な真理、すなわち、あらゆる不当な状況も天父の支配の下にあること、そして御心にかなうときに、神は私たちのために行動を起こしてくださることを信じることなしには、それは達成できないでしょう。このことはまた、イエスの場合と同様に、私たちがいつでも不正から救われるわけではないという可能性をも受け入れなければならないことを意味します。しかし、私たちは天父がなお私たちと共におられ、私たちを覚えていてくださることを常に忘れてはなりません。
先週の学びでは、苦しみの中で賛美をするようにと学び、今週は試練の中で柔和であるようにと教えています。この柔和というのは、苦しみを与える相手に対して、対立関係にならないようにかわしたりガマンをするのではなく、敵を愛するようにと教えています。とてもできないことですが、今週の学びの中に、そのような歩みができるヒントがあります。月曜日の引用文の第二にという部分ですが、ほんとうに自分の姿に気づけば、わたしが救いから遠く汚れていることに気づきます。わたしが救われたのは神さまのあわれみによる以外にありません。とても人のことを責めることができない自分に気づかされます。また誰かと敵対関係になってしまう時に、わたしたちは相手を見下してしたりしないでしょうか。自分の本来の姿に気づく時に謙遜になり相手の別の側面を見え、愛するようになれるかもしれません。
火曜日の学びでマタイ5:48について学びます。この聖句を用いて、人間は神さまのような完全にならねばならない、また神さまからそれを命令されているのだから、完全になれると教られる場合があります。しかし残念ながらわたしたちは自分たちの努力では神さまのような完全を身に着けることができません。引用文にもありますが文脈を見ると、ここで神さまのような完全と言われることは、敵を愛することなのです。この神さまが示された愛情を、罪深いわたしも実現することができること、これは神さまの愛をまわりに示すことになります。この聖句がわたしたちに教えようとしていることは、このような愛を実践する者になるように勧めているのです。