第6課 力の限りに闘う 8月6日
暗唱聖句 「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」 コロサイ 1:29
今週の聖句 ヨハネ 16:5~15、コロサイ 1:28、29、1 ペトロ 1:13、マタイ 5:29、 創世記 32章
今週の研究 自己と罪との闘いにおいて、意志の果たす役割とは何でしょうか。そして意志の力とは何でしょうか。感情に支配されたまま何かを決断するという過ちを避けるためには、どうすればよいのでしょうか。私たちはなぜ、試練の中にあって諦めることなく、耐え抜かなければならないのでしょうか。
日曜日:あなたは「神様、私を良い人間にしてください」と祈っても何も変わらないと感じたことはありませんか。神の偉大な変える力が私たちの内に働くように祈り求めても、私たちの生活が何も変わらないということがなぜ起きるのでしょうか。私たちは、神が無限の力の源であって、それを私たちにただで与えたいと望んでおられることを知っています。それをすべていただきたいと思いながらも、なお私たちの人生は神が望まれるようには変わらないように見えます。
なぜでしょうか。その理由は驚くほど単純です。聖霊は私たちを変える無限の力を持っておられますが、私たちが自分の選択によって、神がなさることに抵抗することが可能だからです。
私たちが試練の中にいるときも同じです。試練があるのは、紛れもなく、私たちが従わず、悔い改めなかった場合もあります。そのようなときに働こうと待機している父なる神がおられるからこそ、私たちは、神の力が私たちの内に働いて私たちを変えることができるように、悔い改めと服従の扉を開くことを意識的に選ぶ必要があります。
月曜日:これは覚えておくべき重要なことです。なぜなら、私たちはより少ない努力でより多くのものを手に入れようとする世界に生きているからです。この考えはキリスト教の中にも忍び込んでおり、キリスト教の牧師の中には、ただ信じさえすれば聖霊が降り、その驚くべき超自然の力によって大きな奇跡が起きると約束する者たちがいます。しかし、これは半分だけ真実の危険な思想です。 なぜならこの考えは人々を、安穏と座ったままで、ただ神の力が降るのを待っていればいいのだという結論に導くからです。
水曜日:イエスは私たちの身体を傷つけるようお求めにはなりません。まったくそうではありません。むしろ、イエスはどのような犠牲を払ってでも、私たちに心を制御し、それによって体を制御するように教えておられるのです。この聖句は、私たちが祈りさえすれば、神がすぐにでも私たちの生活の罪深い傾向を取り除いてくださるとは言っていません。神は時に、あわれみ深くもそのようにしてくださいますが、主はしばしば、私たちに何かをあきらめ、またはやろうとしていない何かを始めるために「過激な」措置をお求めになります。これは厳しい試練です。より多く正しい選びをするほど、私たちの意志はより強くなります。そして、生活の中の誘惑の力はより弱くなるのです。
神は、周囲の騒音に心を奪われている私たちの注意を引くために、試練をお用いになることがあります。その試練の中で、私たちはどれほど神から離れていたかに気づくのです。試練は、私たちが父なる神のご計画に戻るために強い決断をさせるための招きであると言えるかもしれません。
今週は、自己と罪との闘いにおいて、意志の果たす役割について学びます。神さまがわたしたちを罪から離れることに気づくように苦しみを与えられたとしても、本人がその気にならなければ何も変わらないのです。聖霊を拒む罪はゆるされないというのは、このことななのです。罪のゆるしを受けるための第一歩はわたしたちの意思です。そうすると神さまは、わたしたちをゆるして、そして清めのために道を開いてくださいます。けれども日曜日の学びにありますが、ゆるしは与えられるのですが、なかなかわたしたちの人生が神さまのみこころに沿った歩みができるようにはなりません。そこには、今まで持っていた罪深い習慣から簡単には抜け出せないこともあるでしょう。また誘惑に負けてしまう弱さもあります。そしてサタンはそのような躓きや弱さを責めてくるのです。
もう一つ、月曜日の学びはとても大切なことを教えています。現代はいかに効率よく物事を進めて行くか、無駄を省くことが最善と思われています。自分が努力をしないで、聖霊が降ることによって問題が解決して、また癒しが行われることを教えている教会があります。このような聖霊の働きを否定はしませんが、聖霊はわたしたちがいかに歩んだら良いのか導かれます。そしてそれを信じて前進する時に、必要な助けを与えてくださいます。何もしないですべてが解決するという教えは、聖書の教えではありません。
水曜日の引用文にありますが、逆にわたしたちが清められるために難行苦行をするようにも求められていません。苦しみを自分から求めて行かなくても、こちらの事情にお構いなく勝手にやってきます。それが自らの罪の結果であったとしても、神さまがお与えになる試練であったとしても、神さまその苦しみをお用いになってわたしたちを成長させてくださる、それを信じることによって苦しみと戦って行くことができるのではないでしょうか。