安息日学校部

20220212安河内アキラ解説

2022年第2期「創世記」

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第12   エジプトの王子、ヨセフ   6月18日

 

暗唱聖句  「ファラオはヨセフに向かって、「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言(った)。」 創世記 41:41

                                                                     

今週の聖句   創世記 41:37~46、列王記上 3:12、創世記 42 章、ローマ 5:7~11、     創世記 43 章、創世記 44 章、創世記 45 章

                                                                     

今週の研究    感動的な結末の中には、それらの、決して正当化することのできない邪悪な行為にもかかわらず、彼らに対する赦しのメッセージが備えられ、この家族すべてが喜びの涙に包まれます。

                                                                     

日曜日:ヨセフにとってファラオの夢は、この国で神が「これからなさろうしていること」を示すものでした(創41:28)。しかしながら、ヨセフはファラオに自分の神を信じるようにとは言いません。ヨセフがすぐにすべきことは行動することでした。ヨセフは経済計画を提言します。興味深いことに、ファラオの心に留まったのは、ヨセフが語ったことの経済的な部分だけでした。ファラオは、夢の持つ霊的な意味や、それを生み出す神の存在よりも、経済的な進言に興味があったようです。

ファラオがヨセフを取り立てて国を治めさせたのは、彼が夢を正確に解き明かしたことや、やがて国を襲うであろう問題を示したからというよりは、彼がその問題の解決手段を持っており、「ヨセフの言葉に感心した」からでした (創41:37)。ヨセフの進言はファラオの家来たちとも共有されます。ファラオの選択は信仰的というよりも実際的です。そしてなお、ファラオはヨセフの中に 「神の霊が宿っている」ことを認め(同41:38)、彼ほど「聡明で知恵ある者はほかにいない」と宣言し(同41:39)、それが神から与えられた知恵であることを示す表現をしています(同42:33を王上3:12と比較)。

                                                                     

月曜日:この出会いの摂理的性質には、二つの基本的な特徴があります。第一は、それはヨセフが見た夢の成就であったということです。ヨセフの夢の中に預言されていた出来事、すなわち「兄さんたちの束が……わたしの束にひれ伏」すとの預言が(創37:7)今実現しようとしていました。ヨセフはすでに「エジプトの司政者」(同42:6)、そして「あの国の主君である人」(同42:30、33)として認められていました。ヨセフの強力な地位は、あわれな彼の兄たちのそれとは対照的です。彼が見た夢のことでヨセフをあざけり、その成就を疑った(同 37:8)あの同じ10人の兄弟たちが今、ヨセフを前に「地面にひれ伏し」ているのです。

第二は、この摂理的な出会いが応報として描かれている点です。二つの出来事の言葉と主題は互いに呼応しています。「彼らは……互いに言った」(創42: 20、21)という文言は、兄たちがヨセフを亡き者にしようと企てたときにも用いられています(同37:18、19)。兄たちの一時的な投獄は(同42:17)、ヨセフのそれ(同40:3、4)と呼応します。事実、兄たちに今起こっていることは、おそ らく20年前に彼らがヨセフにしたことの結果です。「互いに言った。『ああ、 我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった』」(同42:21)

                                                                    

木曜日:ユダが、「父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません」(創44:34)と言ったまさにその時、ヨセフは「叫」び(同45:1)、兄たちに「自分の身を明かした」 のです。これはしばしば神がご自身を現されるときに用いられる表現であり (出6:3、エゼ20:9)、この時、神もまたご自身を現されたことを意味します。つまり、主は人間の弱さにもかかわらず、その摂理が支配していることを示され たのでした。

ヨセフの兄たちは自分たちが見聞きしていることが理解できませんでした。 そこで、ヨセフは繰り返して言います。「わたしは……弟のヨセフです」(創45: 4)。この二度目の彼の言葉には、さらに兄たちが信じられるように、「あなたたちがエジプトへ売った」(同45:4)という、より正確な形容が伴っているのを兄たちは聞きます。

そこでヨセフは、「神がわたしを……お遣わしになったのです」(創45:5)と宣言します。この言葉は神の二重の目的を表しています。一つは、ヨセフがもう兄たちに悪い感情は持っていないことを再度示すためであり、同時にそれは、心の底からの信仰告白であり、希望の表現でもありました。なぜなら、彼らがしたことは、彼らに「残りの者」〔子孫〕を与え(同45:7)、彼らが生き永らえ、「大いなる救い」(同45:7)に至るために必要であったからです。

                                                                     

今週は、ヨセフがエジプトへ売られて、総理大臣になるまでの物語について学びます。ヨセフがエジプトへ売られたのは何歳くらいでしょうか。聖書には書かれていませんが、一人で旅に出て、そして奴隷としても使える程度の年齢となると、10代の後半だったのかもしれません。年齢ではっきりするのは、ヨセフがパロ王の前に立ったのは30歳と書かれています。(創世記41:46参照)そしてそのあと7年間の豊作があり、お父さんとエジプトへ招く時にあと5年飢饉が続くと話しているので、彼が40歳くらいで父と再会しているわけです。

まず、彼の奴隷としての働きを、また収監されても、どこにおいても神さまは祝福をされたと書かれています。彼にとって決して喜ばしい立場ではなかったにしても、神さまは祝福をされて導かれています。これは今日のわたしたちも同じではないでしょうか。どんな苦しい状況でも、忠実に歩む時に、神さまは導いてくださいます。

そして奴隷として働いていた彼のことを、主人の妻が不義で訴えました。当時の奴隷だったら、もしそんなことをしたらその場で殺されていたのではないでしょうか。神さまが彼を守られたと同時に、彼の忠実な働きから主人も投獄という処分を下したのではないでしょうか。

創世記42章ではヤコブ、そして43章ではイスラエルと書かれています。43章はヤコブの息子たちが穀物を購入するためにも二回目にエジプトへ向かうところです。父ヤコブは飢饉で食べるものが無い、そしてエジプトへ買いに行くしか道は無いことはわかっていても、末の息子ベニヤミンを行かせたくない、この葛藤の中で苦しみ祈っている姿から、この章は彼をイスラエルと記録したのかもしれません。わたしたちの人生も、ヤコブの時もあればイスラエルと呼ばれる時もあるでしょう。そのような彼を神さまは導かれている記録が創世記なのです。

日曜日の引用文は、今まで考えたことがありませんでした。パロ王がヨセフのことを神の霊が宿っていると語っていますが、王は信仰よりも経済的な進言に興味があったと書かれています。たしかにそのあと、パロ王が改心したという聖書に記録はありませんね。けれども王としては、今後の国のかじとりを外国人の奴隷にまかせるのは勇気がいる決断だったでしょう。それをさせてしまうほど、ヨセフから神さまの力が伝わったのでしょう。

ヨセフがお兄さんに「神さまがわたしを遣わした」と信仰告白をしています。ここまで至るまで彼はどれだけ苦しんだことでしょう。人それぞれ神さまから託される働きは異なります。けれども神さまはわたしたちを神さまの働きのためにそれぞれの場所へ遣わされることにはかわりません。あなたが苦しみの中にあったとしても、神さまが必ず導いてくださいます。