安息日学校部

20220210安河内アキラ解説

2022年第2期「創世記」

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第10   ヤコブ、イスラエルになる   6月4日

 

暗唱聖句  「その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 創世記 32:29

                                                                

今週の聖句   創世記 32:22~31、ホセア 12:3、4、エレミヤ 30:5~7、創世記 33 章、 創世記 34:30~35:29

                                                                

今週の研究 ヤコブの家族の物語は、良いことも悪いことも続いていきます。しかし、そ のすべてを通じて、神はその御手と契約の約束に対する忠実さをお示しになり ます。今週私たちは、さらにヤコブについて読み進めます。

言い換えれば、聖書に語られている父祖たちと彼の家族の物語は、そこで起きたすべての不祥事にもかかわらず、神はその約束に忠実であり、約束されたことを成就されることを示し、時には、神の民のすることすべてが、神の約束の成就を妨害しているとしか思えないようなことがあっても、なお神は約束を成し遂げられることを示しているのです。

                                                               

日曜日:ヤコブは家族を守るための手立てを尽くしますが、これから起ころうとすることのために、極度の不安が1人で宿営に残る彼を襲ったとしても不思議では ありません。その時、「ひとりの人」(32:24、口語訳)が彼を襲います。「ひとりの人」は神の臨在を示す特別な暗示のために用いられる呼称です(イザ53:3参 照)。ダニエルはこれを天の祭司ミカエルを表すために用いています(ダニ10: 5)。この呼称は、ヨシュアが「わが主(ヤハウェ)」と呼んだ「主の軍勢の将」 (ヨシュ 5:13~15、口語訳)の描写にも用いられています。

実に、その格闘の最中に、ヤコブは自分が神ご自身と闘っていることをはっきり自覚します。それは彼の「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」 (創32:26)との言葉にも表れています。しかし、去らせないよう神にしがみつく彼のがむしゃらさは、赦されたい、神の前に正しくありたいとの彼の懇願 表しています。

「欺瞞によって長子の特権を獲得するという罪にヤコブを陥れた誤りが、彼の前にはっきりと示された。彼は、神の約束に信頼せず、神が、ご自分の時と方法によって達成しようとされることを、自分の努力で実現させようとした」(『希望への光』98ページ、『人類のあけぼの』上巻216ページ。

そして、彼が赦されたことの証拠として、彼の罪を思い起こさせる古い名から、彼の勝利を記念する新しい名に変えられます。天使は言います。「お前の名はもうヤコブ〔押しのける者〕ではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。 お前は神と人と闘って勝ったからだ」(創32:29〔口語訳32:28〕

                                                                

水曜日:悔い改めの過程は、ある場所から別の場所に移る、あるいは一つの教会から他の教会へ移るというような物理的な移動以上のものです。最も重要なこと は、私たちが神の恵みによって、住む場所によらず、偶像を心から一掃することです。なぜなら、どんなものでも偶像になり得るからです。

ここで強調されているのは、その場所そのものよりも「ベテルの神」です。 再度登場するこの神の個人的な呼称は、神がヤコブの名を「イスラエル」(創 35:10)と呼ばれることと呼応しています。この祝福には二重の約束が込められているのです。ヤコブの第一の祝福はメシアに至る豊かな子孫を意味し、多くの国民の群が起こることを意味します(同35:11)。第二の祝福は、「約束の地」を指し示すものです(同35:12)。

                                                               

木曜日:ヤコブがベテルを離れて間もなく、約束の地への道の最後に、それぞれに関連する三つの出来事が起きます。すなわち、ヤコブの最後の子の誕生、ラケルの死、そしてヤコブのレアとの最初の子であるルベンがヤコブの側女と寝るという事件です。聖書はなぜこの若者がこんな忌むべきことをしたのか、詳しく述べてはいません。ヤコブの最後の子の誕生を汚し、ラケルの思い出を卑しめるためであったかもしれません。私たちにはわかりません。

驚くことに、ヤコブはこの恐ろしい律法を犯す違反を耳にしても(創35:22)、何ら行動しません。おそらく彼の人生のこの時点では、ヤコブは、彼の周りに起きるたび重なる罪と悪にもかかわらず、神は御言葉を成就されることを信じていたと考えられます。

この的確な信仰の教訓は、やがてイスラエルの各部族の祖先となるヤコブの12人の息子たちのリスト(創35:22~26)からも読み取ることができます。彼らが、決して善良で親切な人間ではなかったことを私たちは知っています。しかし、それらのすべての問題、すべての機能不全、そしてルベンがビルハにしたようなあからさまな悪にもかかわらず、実に、この家族が、どれほどひどい状態にあろうとも、神の御心はこの家族を通してなお成就しようとしていたのです。

                                                               

今週は、ヤコブのカナンへの帰還から定住について学びます。ヤコブの帰還に際して、最も心配だったのは、兄エサウの対応でした。彼はきっと自分のことを憎んでいるでしょう。また父親から長子の特権を受け継いだのは自分なのだからと、彼が守ってきた財産を横取りするのではと考えて、戦いを挑んでくるかもしれません。このような問題の原因は、ヤコブが自らの想いだけで道を開いた罪の結果であり、それを自分の力では解決が不可能だったことを彼はわかっていました。彼はどうしようもできないところへ追い込まれ必死になって神さまに祈ります。その夜、彼は神さまに罪の赦しと祝福を求めるための格闘をします。

預言では世の終わりにもヤコブの悩みの時のように、神さまを信じる一人ひとりが自らの罪を弱さを前にして格闘する時がやってくると書かれています。けれどもそれは終末ではなく、わたしたちの信仰生活において、いつも必要なのではないでしょうか。人生において苦しみや困難がやってきます。神さまは、このような時を用いて、わたしたちが自らの罪を悔い改め、そして神さまの助けが無いと何もできない自分の姿について、気づくように導かれるのです。

さて、ヤコブはエサウにおみやげを用意します。山羊と羊が220匹ずつ、ラクダ30匹、牛50匹、ろば30匹とあります。(創世記32:14参照)羊や山羊は、毛などを売ったりして当時において財産を増やすために必要です。牛やラクダ、ろばは交易のため使うもので、現代で言えばトラックのようなものです。例えば羊や山羊を一頭3万円くらいで考えると1320万円、ラクダや牛、ロバなどを一頭10万円だったら1100万円、これはとても少なく見積もってです。今日の、これらの家畜をいくらくらいで評価するのが妥当なのかわかりませんが、わたしは億単位のおみやげではなかったかと思っています。ヤコブがこれだけのものをおみやげとして渡すことができるように、杖一本でカナンを出て20年、神さまはヤコブを祝福されたのでした。