第9課 押しのける者ヤコブ 5月28日
暗唱聖句 「エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」 創世記 27:36
今週の聖句 創世記 25:21~34、創世記 28:10~22、創世記 11:1~9、創世記 29:1~30、創世記 30:25~32
今週の研究 ヤコブは父をだまして兄から祝福を盗んだので、生涯、逃亡者として生きることになります。その逃亡中に、神は彼にベテルで対峙されます(創28:10~ 22)。その時以来、欺く者ヤコブは、自分自身が欺かれる経験をすることになり ます。彼が愛したラケルの代わりに(同29章)、姉のレアが彼に与えられ、彼は2人の妻のために合計14年間働くことになります。
しかし、ヤコブは同時に神の祝福も経験します。彼は逃亡中に12人の息子を得、神は彼の富を増し加えられます。
こうして、私たちはこの物語の中に、神はどんなことがあろうとも、神の民がどんなに失敗しようとも、一つの方法がだめでも別の方法によってその契約の約束を成就されるのを見るのです。
月曜日:このはしごは、天に届かせるために建てられたバベルの塔とつながります。 このはしごはバベルの塔のように、「天の門」に届いています。バベルの塔が神に届こうとする人間の努力を表すのに対して、ベテルのはしごは、神に近づくことは、神が私たちのところに〔降りて〕おいでになることによってのみ達成できるのであって、人間の努力によらないことが強調されています。
ヤコブが頭を置いて夢を見た「石」は、「神の家」ベテルのシンボルであり (創28:17、同28:22と比較)、宮、聖所、すなわち神が人間を救われる活動の中心を指し示しています。
しかし、ヤコブは彼に起きた出来事を、霊的で神秘的な礼拝と畏敬の念に限定してはいません。彼は具体的に、目に見える形でそれに応えたいと望みます。 こうしてヤコブは、神に「十分の一」を献げる決心をします。それは神の祝福を得るためではなく、彼にすでに受けていた神の賜物に対する感謝の応答でした。ここに私たちは、イスラエル国家が起こるはるか以前に、什一の思想が あったことを見るのです。
火曜日:同じ考え方が、「目には目、歯には歯」という「復讐法」(出21:24を創9:6 と比較)の中にも暗示されています。それは、加害者である罪人に、被害者が受けたのと同等の行為を〔罰として〕受けさせるという法則です。この法則のように、ヤコブがかつて他者にしたことを、今彼の身に受けるのでした。
ヤコブは今、だまされるということがどんなことかを身をもって知ります。皮肉なことに、神はヤコブに、彼自身の欺きがどんなものであったかをラバンの欺きを通して教えます。「欺く者」(創27:12、口語訳)であったヤコブが、欺きの被害者となって初めて、欺きがどういうものであるかを思い知るのです。こうして彼は〔ラバンに〕尋ねます。「なぜ、わたしをだましたのですか」(同29: 25)。その言葉は、彼が、欺きが誤りであることを知ったことを表しています。
木曜日:もともと、妻を見つけるために家を出たヤコブは、ずいぶん回り道をしたものです。おそらくこんなに長く故郷を離れるつもりはなかったでしょう。しかしさまざま出来事が、彼を何年も引き留めることになりました。
そして遂に故郷に帰る時が来ます。そしてそれは、なんと彼の家族を伴っての帰郷でした。 それにしても、ヤコブはなぜもっと早くラバンのもとを離れなかったのでしょうか。彼の尋常でない忠誠は、ヤコブが変わったことを示しています。彼は信仰の教訓を学んだのでした。それは、ヤコブが神の行けとのしるしを待ったことからわかります。神が彼に語ったとき、初めて彼は行動を起こす決心をします。
神はご自身を「ベテルの神」として現され、ヤコブにラバンの家を出て、「あなたの故郷に帰りなさい」とお命じになります(創31:13)。それはかつて神がアブラムに「家を離れ」るようお召しになったのと同じ言葉でした(同12:1)。
彼に行くべき時であることを促したのは、ラバンの息子たちとラバンの態度でした(創31:1、2参照)。「ヤコブは、エサウに会う恐れさえなければ、とっくの昔に、この悪賢い親類のもとを去っていたことであろう。ところがヤコブは、 ラバンのむすこたちが、彼の富を自分たちのものだと考えて、暴力に訴えてでも手に入れようとする危険を感じた」(『希望への光』95ページ、『人類のあけぼの』 上巻210ページ)のでした。
こうして、彼は家族を連れ、財産と共に出発します。そしてここから、神の契約の民の新たな章が始まるのでした。
今週からはヤコブの生涯に学びは進んで行きます。ヤコブの生涯の最初の大きなできごとは、父をだまして祝福を奪い取ることです。わたしはこの物語を読むたびに、エサウが神さまからの祝福に対して価値を認めていないと言われますが、わたしは兄のエサウに同情します。生まれてくる前から、弟に仕えると預言されているのです。そして父も彼もそれを知っていたでしょう。それはおもしろいはずがありません。そのような態度の息子を見て、父イサクが不憫に思うのもわかります。
そのような中で、父がエサウを祝福しようとした時に、母とヤコブは父をだまします。もし彼らが父をだまさなかったら、神さまはきっと何かの方法で、このことを阻まれたのではないでしょうか。そしてその後の物語も全然別の展開となったでしょう。
そして父と兄をだました後に、彼は家を出て母の国へ亡命しなければならなくなります。きっとその夜、彼は不安と後悔で涙を流しながら一人野宿をしたことでしょう。そこへ天から光る梯子が降りてきます。神さまは、たとえまちがった選びをした者へも、最も必要な時に、導いてくださっていることを伝えてくださるのです。彼のこれからも道への、これ以上の励ましはありません。
その後、彼はラバンの家で働きながら家庭を築いて行きます。その間にラバンに騙されて、また二人の妻の間で苦しみます。彼が父をだましたことを含めて、それぞれの場所でできる最善と思われる決断をして必死に生きて行きます。それは神さまのみこころにかなわないこともあるかもしれません。けれども神さまは従うものを導いてくださること、それを彼の生涯は教えているのではないでしょうか。