安息日学校部

20220208安河内アキラ解説

2022年第2期「創世記」

PDFダウンロード

第8   約束   5月21日

 

暗唱聖句  「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。 創世記 24:1

                                                                 

今週の聖句   創世記 22 章、ヘブライ 11:17、レビ記 18:21、ヨハネ 1:1~3、ローマ 5:6~8、 創世記 23~25 章、ローマ 4:1~12

                                                                 

今週の研究    そこに示された教訓がどれほど深いものであろうと、そのためにアブラハムの家族は間違いなくこの出来事によって激しく揺さぶられ、そして、その時のアブラハムに未来はまったく見えていませんでした。サラはモリヤ山での犠牲の直後に亡くなり(創23章)、イサクは独身のままでした。

アブラハムはそこで確かに「正しい」未来に向かって自ら行動します。彼は息子とリベカの結婚を手配します(創24章)。彼女は2人の息子を産み(同25: 21~23)、そしてアブラハム自身もケトラと再婚しますが、彼女は彼に多くの子どもを産みます(同25:1~6)。今週私たちは、アブラハムの人生の最終章をたどります(同25:7~11)

                                                                 

日曜日:では、アブラハムにそのようにお求めになった神の御目的は何だったのでしょうか。なぜこのような困難な方法で彼を試されたのでしょうか。

聖書の「試練」(ヘブライ語では「ニッサー」)には二つの相反する概念があります。一つは裁きを意味し、それは試される者の心の中に何があるかを知るためのものです(申8:2を創22:12と比較)。しかしそれはまた、試される者に与えられる神の恵みの保証をもたらします(出20:18~20)。

アブラハムの場合、神への信仰が、彼の「未来」(子孫)を失う危険を冒させます。なおも、彼は神を信じるがゆえに、それを頭で理解することがどんなに困難であろうとも、神の求めに従います。見えないこと、完全には理解できないことを信じることこそが、信仰なのではないでしょうか。

さらに、聖書の信仰は、神に献げ、神のために犠牲を払う能力を指しません───疑いなく、それは信仰の役目ではありますが(ロマ12:1)。信仰は、神に信頼する能力であり、受けるに値しない者であることを理解しつつも、神の恵みを受ける能力です。

この真理は、続く出来事の中で再確認されます。アブラハムのあらゆる働き、 多くの熱心な活動、息子との苦しい旅、神に従い、最善のものを献げるという覚悟でさえ、それらはどれほど教訓的であったとしても、彼を救うことはできませんでした。なぜでしょうか。それは主ご自身が、犠牲として雄羊を用意され、それが彼の唯一の救いの希望であるイエスを指し示していたからです。

その時、アブラハムは恵みの意味を理解します。神のための私たちの行いが私たちを救うのではなく、私たちのための神の行いが救うのです(エフェ 3:8 をロマ11:33と比較)。アブラハムのように、私たちが神のために働くように召されているとしてもです。アブラハムの行いは力強い模範となっています(ヤコ ブ2:2~23)

                                                                

火曜日:イサクを犠牲とする物語の直後にサラの死の記事があるということは、この事件は、まさしく息子の命に関わることだったのですから、彼女がこの出来事によって何らかの影響を受けたことを物語っています。いずれにせよ、サラは今回も、過去に夫の旅に、そして時折見せる彼の信仰上の過ちに巻き込まれたと同じように(創12:11~13)、夫の「試練」に巻き込まれたのです。

事実、サラは旧約聖書の中で唯一その年齢が記されている女性です。この事実は、この物語にとって彼女がどれほど中心的存在であったかを示しています。彼女の死よりもサラの埋葬の場所の購入が、これほど注目されているのは(ほとんどこの章全部が裂かれている)、約束の地との関連を強調するものです。

彼女が「カナン地方……で死んだ」(創23:2)と詳細に記されていることが、すでに、神の約束の地におけるサラの死を強調しています。サラはアブラハムの一族で最初に約束の地に葬られた人物です。アブラハムの心配は、彼が「一時滞在する寄留者」(同23:4)であることでしたが、ヘトの人々との彼の執拗な交渉は、アブラハムの関心が単に墓所の購入にあったのではなく、主として、この地に永住することにあったことがうかがわれます。

                                                                

水曜日:しかしながら、アブラハムは、その女性が神の召しに応じない可能性も否定していません。神は力強いお方であると同時に、人が従うように強制はされま せん。リベカに対する神のご計画は、エリエゼルに従うことでしたが、彼女は選択の自由を持っていました。この女性が彼と行かないことも可能であり、彼女がそれを望まないなら、それを強いられることもありませんでした。

したがって、私たちはここに、神は私たちに、人として自由意志、選択の自由、すなわち神が決して踏みにじることのない自由をお与えになったこと、その大いなる神秘の一例を見るのです(もし神が強制されるなら、それはもはや自由意志ではありません)。そして、人の自由意志の現実と、人がその自由意志で下した 選択の悲惨な結果にもかかわらず、私たちはなおも、最後の最後には、神の愛と善意が現されることを信じることができます。

                                                                 

今週は、アブラハムの晩年について学びます。彼の生涯は試練の連続でした。日曜日の学びに「聖書の「試練」(ヘブライ語では「ニッサー」)には二つの相反する概念があり ます。一つは裁きを意味し、それは試される者の心の中に何があるかを知るためのものです」と書かれています。試練の原因は自らにある場合もあるでしょう。アブラハムにも同様なことがあったはずです。けれども神さまから試されて、それによって神さまからの恵みの保証をいただくことができるのです。アブラハムは神さまの召しを信じて、ふるさとを後にしました。「もし出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会があったであろう」(ヘブル11:15)。彼らはウルを出てから、一度もふるさとへは帰っていません。彼は神さまを信じ続けて歩んだのです。そして神さまは、彼の信仰に応えてくださったのです。それはわたしたちも同じではないでしょうか。これから先に起こることはわかりません。けれども神さまを信頼して、ここまで歩んで来たのだから、これからも導いてくださることを信じて歩む時に、わたしたちの道を必ず支えてくださいます。

 

アブラハムの晩年でもう一つの心配なことは、息子イサクの結婚でした。子どもの幸せを願うのは親の想いはいつの時代も変わりません。そのためにアブラハムは、できうる最善を尽くします。そして突然やってきたエリエゼルに従ったリベカも信仰の人でした。水曜日の引用文にもありますが、彼女が選んだ道を神さまは祝福されたのです。神さまはわたしたちの自由を尊重されます。そこに神さまの深い愛があるのです。まちがった道を選んだとしても、導き続けてくださいます。だからこそ、家族や友人のためにも祈りつづけて行かねばなりません。それはわたしたちに連なる愛する人たちだからです。