第6課 アブラハムのルーツ 5月7日
暗唱聖句 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」 ヘブライ 11:8
今週の聖句 創世記 12 章、イザヤ 48:20、イザヤ 36:6、9、エレミヤ 2:18、創世記 13 章、 創世記 14 章、ヘブライ 7:1~10
今週の研究:アブラハムに彼の過去に別れを告げることとなったこの一度目の召しは、(彼の息子の中にあると思われた)未来をも 手放すようにという二度目の召しへと導きます。結果として、アブラハムは常に旅を続ける寄留者でした。神が彼を「よそ者」とも呼ばれるのはそのためです(創17:8、英語欽定訳)。
アブラハムは信仰の模範であり(創15:6)、ヘブライ語聖書では、信仰の人として覚えられます(ネヘ9:7、8)。新約聖書では、アブラハムは旧約聖書を代表する人物として最も多く引用されています。今週から3週にわたって、その理由を学んでいきましょう。
日曜日:アブラム以前に、神が人に最後に語りかけられたのは、聖書の記録によれば、ノアに対してでした。それは、大洪水の後にノアを安心させるためのもので、再び世界規模の洪水が来ることはないという、神がすべて肉なるものとの間に立てたの契約でした(創9:15~17)。神がアブラムに語った新しい言葉は、地上のすべての氏族がアブラムを通して祝福されるという約束に、再び結びつきます。
この預言の成就は、過去からの決別をもって始まります。アブラムは、彼が慣れ親しんだすべてのもの、彼の家、国、それらの彼の一部とも言えるものに さえ別れを告げます。この文脈の中で7回も繰り返されている「行きなさい」 というキーワードに、この命令の強さが表されています。アブラムはまず、彼の故郷「カルデアのウル」を離れますが、それはバビロンの都市でもありました(創11:31、イザ13:19)。この「バビロンを出よ」との召しは、聖書の預言の 中でも長い歴史を持つものです(イザ48:20、黙18:4)。
アブラムの旅立ちは彼の家にも関わることでした。アブラムは、彼の先祖から受け継いだ財産と、彼が祖国の伝統、教育、感化を通して学び、獲得したも のの多くを捨てて行かねばなりませんでした。
しかし、神の行けとの召しはさらに多くのものを巻き込むものでした。「行きなさい」を意味するヘブライ語の「レーフ、レハー」は、文字通り訳せば、「自ら行きなさい」または「自分自身のために行きなさい」という意味があります。 アブラムのバビロンからの旅立ちは、彼を取り巻く環境や家から離れること以上のことでした。このヘブライ語の表現では「自分自身」が強調されています。 アブラムは自分自身から出なければならないのです。それはバビロンという過去を含む彼自身を捨てるためでした。
火曜日:ロトはよく潤った平野(同13:10、11)を、将来隣人になる人々の邪悪さについては何も考えずに、最も安易で、自分に都合の良い選択をします(同13:13)。 この選択は彼の欲深い品性を表しています。彼が平野を「自分のために」〔創 13:10、英訳聖書〕選んだことは、洪水前の人々がやはり「自分たちのために」 (同6:2)人の娘たちを選んだことを思い起こさせます。
これに対して、アブラムの行為は信仰によるものでした。彼は自分から土地を選びませんでした。それは神の恵みによって彼に与えられたものでした。アブラムは、ロトのように自分からでなく、神の命令によって初めてその土地を見ました(創13:14)。それは彼がロトと別れて、神が再び彼に語られたときでした(同13:14)。実は、これが、ウルでの召命以来、神がアブラムに語られた 最初の記録です。「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、 目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの 土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える』」(同13:14、 15)。そして神は彼に、割り当てられた者としてこの地を「歩き回る」ように促します。「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」(同13:17)。
しかし主は、その土地をアブラムに与えるのは神ご自身であることを明確にされます。それは賜物、すなわち恵みの賜物であり、アブラムは信仰、すなわち服従へと導く信仰によってのみ、それを受けるにふさわしい者とならねばならないのです。ここで神がアブラムに約束されたすべてのものを実現するのは、ただ神の業だけなのです(創13:14~17)
木曜日:メルキゼデクは実際に祭司としての公の務めをしています。彼は「パンとぶ どう酒を持って」来ましたが、このぶどう酒はしばしば、搾りたてのグレープジュースの使用を意味し(申7:13、代下31:5)、再度、什一を献げる文脈で出てきます(申14:23)。この務めに加えて、彼はアブラムを祝福します(創14: 19)。
一方、アブラムは「天地の造り主」(創14:19)、創造主なる神への応答として「すべての物の十分の一を」彼に贈ります(同14:20)。この呼称は天地創造 の物語の導入部を暗示していますが(同1:1)、「天と地」は全体または「すべて」を意味します。このように、この呼称は、すべてのものを所有しておられる創造主への感謝の表現であると考えられます(ヘブ7:2~6を創28:22と比較)。 この什一は、逆説的に礼拝者が神に献げる贈り物ではなく、神からの賜物を意味します。なぜなら、神は初めから私たちにすべてを与えてくださっているからです。
今週から三週間、アブラハムについて学びます。創世記が天地創造からバベルの塔までが前半とした、アブラハムからヤコブやヨセフまでは中盤から後半ですね。聖書は神さまとわたしたちの契約の書です。神さまを信じて、主人として従うようにわたしたちは招かれています。そしてそのことばを信じて前進すると、必ず神さまは守ってくださいます。アブラハムはカルデヤのウルに住んでいましたが、神さまから約束の地へ向けて出て行くように召されました。それは今まで彼の経験などをすべて捨てて、新しい道を歩むことでした。もし彼が、この召しを拒んで、ウルで生涯を終えたら、おそらくそれなりの財産があり、そして信仰者をして尊敬された人生を送ったでしょうが、子どもいなかった彼は家系はそこで途切れたでしょうし、聖書にも記録されなかったでしょう。けれども彼が出て行くことで、彼は信仰の父として全世界の人から崇めあられました。彼の生涯は神さまが約束を成就されたあかしなのです。
アブラハムは信仰の父と言われています。聖書は「信仰による義」を教えていますが、それと対比するものとして「行いによる義」があります。これは自らの善行や、儀式や巡礼などをすることによって、自らの行いで義を得ようとすることを、プロテスタント教会は否定しているからです。けれども信仰と行いは密接に関係しています。信じているならば当然、行いが伴います。アブラハムは神さまを信じていたからこそ、前進したのです。そして信じて前進する者を、必ず神さまは守ってくださいます。(ヤコブ2:18参照)
今週の学びにありますが、アブラハムがたどり着いた約束の地は、決して豊かな土地ではありませんでした。そして戦いにも巻き込まれたり、様々な困難や誘惑もあります。これはわたしたちも同じではないでしょうか。それでも神さまに信頼して、そして彼はメルキゼデクの前に什一をささげます。どんなことがあっても、神さまからいのちを与えていただき、そして導かれていることを信じているからこそ、神さまの命令に従って什一をささげるのです。このように信じていることは、神さまからの命令や勧めをすべて守ろうとすることなのです。アブラハムは、その神さまの言葉を信じて行ったからこそ、信仰の父と呼ばれているのです。