第5課 すべての民族とバベル 4月30日
暗唱聖句
「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 創世記 11:9
今週の聖句
創世記 9:18~11:9、ルカ 10:1、マタイ 1:1~17、ルカ 1:26~33、 詩編 139:7~12、創世記 1:28、創世記 9:1
今週の研究
洪水の後、聖書の記述はその焦点を、ノア1人から彼の3人の息子たち、「セム、ハム、ヤフェト」へと移します。中でも、カナンの父となるハム(創10:6、15)に特別の注意が向けられます。約束の地「カナン」(同12:5)の名はこのカナンに由来します。地上のすべての民族は彼によって祝福されると約束されたアブラハム(同12:3)も、この地に入るのを待ち望んだのでした。
人間の邪悪さにもかかわらず、神は悪を良いものに変えることがおできになります。神はいつもそうであるように、「最後の一手」をお持ちなのです。父の 天幕でのハムがしたこと(創9:21、22)による呪い、そしてバベルの塔で混乱させられた民は(同11:9)、最終的にはすべての民族の祝福に変えられます。
月曜日:ノアの時代の年代記的情報は、ノアが洪水前と洪水後の文明をつなぐ存在であることを理解する助けとなります。前述の物語の最後の2節(創9:28、29) は、私たちをアダムの系図の最後の部分へと連れ戻します(同5:32)。ノアの父であるレメクが56歳のときにアダムは死んだので、ノアはアダムの物語を聞いていたはずです。そしてノアはそれを洪水前と後の彼の子孫たちに伝え聞かせたはずです。
聖書の系図には三つの目的があります。第一は聖書の出来事の歴史性を強調することであり、そのためには、その時代に生まれ、死んだ実在の人々の正確な生きた年数が必要になります。第二に、古代から聖書記者の時代までの連続性を示し、過去と「現在」を明確に関連づけるためのものです。第三は、人間のはかなさと罪の呪いの悲劇的な影響、それがすべての世代に致命的な結果をもたらしていることを思い起こさせるためです。
水曜日:皮肉にも、人が天に上ろうとしたのに、神が彼らの所に降って来られたのでした。神の降下は、神が至高のお方であることの証拠です。神は常に、私たち人間の手の届かない所におられます。神の所に上ろうとするいかなる人間の努力も、天におられる神に会おうとするいかなる試みも役に立たず、愚かなことです。だからこそ、私たちを救うためにイエスは私たちのいる地上に降られたのです。それ以外には、私たちを救う道はなかったのです。バベルの塔の物語の大きな不思議は、「人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て」(創11:5)との神の言葉です。神は見るために降る必要はありません (詩編139:7~9を同2:4と比較)。しかし、神はとにかくそのようにされます。それは、神の人との関わりを強調するためです。
神の降下は、私たちに、信仰による義の原則と神の恵みの過程を思い起こさせます。私たちが神のためにするどんな働きをしようとも、なお、神は私たちに会うために、降らねばならないのです。私たちを神へと引き上げ、贖うのは、私たちが神のためにすることによるのではありません。そうではなく、神が私 たちのいる所に降られることが私たちを救うのです。事実、創世記は二度にわたって神が「降って」と述べています。それは、どれほど神が地上の出来事に関心を払っておられるかを物語っています。
金曜日:シナルの平原の住民は、この地上に再び洪水を起こさないという神の契約を信じなかった。彼らのなかには、神の存在を否定し、洪水は自然的原因によって起こったとする者が多かった。他の者は至高者を信じ、神が洪水前の世界を 滅ぼしたことを信じていた。しかし、彼らの心は、カインと同様に神に反抗的 であった。彼らが塔を建てた目的の1つは、もし再び洪水が起こったならば、彼らの身の安全を確保するためであった。彼らは、その建造物を、水が達した ところよりもはるかに高く築き上げて、どんな危険にも耐えられるようにしようと思った。そして、雲のある層にまで登れるから、洪水の原因をつきとめることもできるだろうと彼らは考えた。この企てのすべては、計画者たちの誇りをさらに高め、後世の人々の心を神から引き離し、偶像礼拝に陥れようとするものであった」(『希望への光』58ページ、『人類のあけぼの』上巻114、116ページ)
今週は、洪水直後の人々について学びます。彼らは洪水後の復興をしながら徐々に増えて行くのですが、金曜日の引用文にありますが、彼らは神さまの契約を信じませんでした。その結果、バベルの塔を建てたのです。どのくらいの高さになったのかはわかりませんが、彼らはそのくらい高さの塔と立てる技術があったのです。その後、聖書の中や歴史を見ても、あまり高い塔が出てきません。費用対効果が良くなかったのか、またその必要がなかったのかもしれません。けれども当時の人にとっては、再び洪水に襲われた時に、自らを守るために高い塔が必要だったのです。そこには、神さまが箱舟を守られたから生き延びることができたこと、そして神さまが洪水で滅ぼすことをしないという約束などは忘れ去られています。
この稿で何回も書いていますが、わたしたちと神さまの関係は契約関係なのです。聖書はその契約がいかにすばらしいもので、与えられる恵みについて神さまから語りかけられているものです。神さまの力と護りを信じて、契約である十字架の救いを受け入れるか、それとも自分の力で自らを守って行くのか、これを選ぶのはあなたなのです。バベルの塔を建てた人たちに語りかけられた、同じ声が今のわたしたちへも神さまから届いているのです。
今日も同じように、天国行きの列車に乗ることを、選ぶように神さまからわたしたちは招かれています。