第2課 人類の堕落 4月9日
暗唱聖句
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」創世記 3:15
今週の聖句
創世記 3 章、2 コリント 11:3、黙示録 12:7~9、ヨハネ 8:44、
ローマ 16:20、 ヘブライ 2:14、1テモテ2:14、15
今週の研究 善悪の知識の木からは食べてはならないというこの警告は(同2:16、17)、彼らが善を知ることはあっても、悪を知ってはならないということを示しています。
なぜその警告が与えられたのか、私たちはその理由を理解することができます。
さらに、この不服従についての警告(創2:17)に伴う死の脅威が成就し、彼らは死ぬことになります(同3:19)。彼らは、園の木から食べることを禁じられただけでなく、もはやエデンの園から追い出され(同3:24)、罪人となった今、永遠の命をもたらすものに近づく道が断たれました(同3:22)。
しかしながら、原福音または「最初の福音の約束」と呼ばれている創世記3: 15には、この悲劇のただ中にあって希望が与えられています。確かにこれは、聖書において最初に登場する福音の約束であり、堕落したにもかかわらず、神が私たちに逃れの道を備えられたことを、最初に人に告げられた場面です。
月曜日:不死と神のようになること、サタンのこれら二つの欺きは、エバにその実を食べることを納得させます。女が神に背いて禁じられた実を食べる決断をした途端に、彼女はまるでそこに神はおられず、彼女自身が神に取って代わったかのようにふるまいます。聖書の記述は彼女の人格の変化を示唆しています。エバは神の言葉を用いて、禁じられた実を彼女自身が評価します。「女がその木を見ると、それは食べるに良く……思われた」(創3:6、口語訳)。これは「神は ……見て、良しとされた」(同1:4など、口語訳)という、神の創造を評価している御言葉を思い起こさせます。
不死と神のようになるというこれらの二つの誘惑は、古代エジプトとギリシア宗教の根底にある思想です。彼らが神に属する性質であると考えていた不死に対する願望は、不死を得たいがために、彼らをして神の地位をも求めさせました。そしてこのような思想は、いつのまにかユダヤ・キリスト教文化の中に浸透し、霊魂不滅思想を生み出し、多くの教会の中に今日もなお存在しています。
火曜日:神は2人に近づいて、彼らに「あなたはどこにいるのか」(創3:9、口語訳)と問いかけます。後に神はカインにも同じように問いかけます(同4:9)。もちろん神はこの問いの答えをご存知でした。神のこれらの問いは、罪の意識を引き出すためであり、彼らがしたことを自覚させるためでしたが、同時に、彼らを悔い改めと救いへと導くためでもありました。人が罪を犯した瞬間から主は、彼らの救いと贖いのために働いておられたのです。
事実、このシナリオはすべて調査審判の手順を反映しています。それは判決を準備するための(創3:14~19)裁判官による罪人に対する審問で始まります(同3:9)。しかしこの審問は、最終的な救いへと導く(同3:15)悔い改めを促すためでもあります。これは聖書全体を通して一貫する主題です。
罪人にありがちなことのように、アダムとエバは2人とも最初は、他者に責任を転嫁し、訴えを逃れようとします。神の問いかけに対して、アダムは、自分のしたことは神が与えた女のせいであり(創3:12)、彼女が自分をそうさせたと答えます。これは女の罪であって(暗にそれは神の罪でもあるので)、彼の責任ではないと言います。
水曜日:創世記3:15と黙示録12:17との類似性に注目してください。竜(蛇)、激しく怒り(敵意を置き)、残りの者たち(子孫)、エデンの女と黙12:17の女です。戦い(大争闘)はエデンで始まり、人類の堕落を招き、そして終わりの時まで続きます。しかしながら、サタンの敗北はすでにエデンにおいて約束され、彼の頭は砕かれ、このテーマはサタンの最終的な滅びが描写された黙示録においてより明確にされています(同20:10)。これこそが、創造当初から人類に与えられた希望であり、この希望は、悪の知識によってもたらされた恐るべき混乱から抜け出す道となる希望であり、私たちが今現在も分かち合うことのできる 希望なのです。
木曜日:神の蛇に対する裁きは、はっきりと呪いとして明確に示されていますが(創 3:14)、女と男に対する神の裁きはそうではありません。再び「呪い」という言葉が使われているのは、「土」に対してのみです(同3:17)。つまり、神は男と女に対して、蛇に対するものとは別の計画を持っておられたことを意味します。彼らには、蛇には与えられなかった希望が与えられたのです。
なぜなら、女の罪は蛇との関係に起因していますので、女に対する神の裁きについて述べている節は、蛇に対する裁きと関連しています。創世記3:15のすぐ後に同3:16が続いているからというだけでなく、これら二つの預言の間 にある対比は、明らかに、同3:16の女に関する預言が、同3:15のメシア預言との関連の中で読まれるべきであることを示しています。出産を含む女に対する神の裁きは、救いに対する肯定的な見方の中で理解されねばなりません(1 テモ2:14、15と比較)。
男の罪は、神の言葉を聞く代わりに女の言葉を聞いたためであったので、男がそこから取られた土が呪われます(同3:17)。その結果、男は顔に汗して働き(同3:17~19)、やがて彼が取られた土に「返る」のです(同3:19)。それは起こるべきではなかったことであり、決して神の最初のご計画でもありません でした。
アダムが迎えねばならない死の絶望的な見通しに対して、アダムは女に目を向け、その出産を通して命の希望を見たことは重要です(同3:20)こうして、死の宣告のただ中にあってもなお、彼は命の希望を見るのでした。
今週は、人間が最初に罪を犯す場面について学びます。聖書は天地創造の前から始まっている善と悪との戦いの物語なのです。それが最初に激突したのが今週の物語です。悪魔は人間に誘惑しかしません。人がその言葉に従って、欲望に負けるように導くのです。みなさんも自分自身が誘惑に負けた場面について思い出してください。その時は、そのことで与えられる甘美に酔いしれているかもしれません。けれどもいざまちがった選びをして失敗したら、後には暗い影しか残っていないのです。最初の人たちが誘惑に負けてしまった後に、神さまから目をそらしました。罪とは神さまとの正しい関係から外れてしまうことです。道徳や他の宗教でも、悪いことをしないようにと教えていますが、神さまとの正しい関係から外れることが罪と教えているのはキリスト教だけです。月曜日の引用文で「不死と神のようになるというこれらの二つの誘惑」と説明しています。悪魔は、そのような選びをさせるようにわたしたちを誘惑するのです。
わたしたちは誘惑に負けてしまったことに気づいた時に、自らの弱さを突き付けられます。この弱さを忘れてしまっている時に、わたしたちは失敗をします。同時にこの弱さから自分では抜け出すことができないことを知らされます。神さまにすぐに救いの道を彼らにも示されたのです。そしてそこで悪魔の敗北も宣言されました。それから約6000年が過ぎようとしています。そして今日も善と悪との戦いは続けられ、誘惑に負けてしまった人を救うためにキリストが働いてくださっているのです。