安息日学校部

20220201安河内アキラ解説

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第1   創造の御業   4月2日

 

暗唱聖句
「初めに、神は天地を創造された。」 創世記 1:1

                                           

今週の聖句
詩編 100:1~3、創世記 1~2 章、出エジプト記 20:8~11、
出エジプト記 40:33、マタイ 25:14~30、マタイ 19:7~9

                                           

今週の研究   創世記1章と2章の二つの創造の記述には、神と人類についての数々の教訓が含まれています。今週の学びを通して私たちは、第七日安息日の意味をより深く理解することができます。神が御自分にかたどって、土から人間を造られたことについてもじっくり考えます。善悪の知識の木を置かれた目的と命の木との関係性についての学びは興味深いものとなるでしょう。

世界の始まりについての聖書の物語から学ぶべき最も重要な教訓は、恵みについての教訓です。私たちの存在は純粋に恵みの業によるものです。神はまだ人間が存在しない前に天地を創造されたのです。私たちの創造と同じように、 私たちの贖いもまた神からの賜物なのです。創造と贖い、この二つの考えが第七日安息日の戒めの中に存在するということは、なんと意義深いことでしょう。

                                           

はじめに:創世記は、聖書で最初に創造と被造物の贖いの両方について記した物語です。その中には、世界で唯一「公式」な人類の起源についての記述があります。

創世記は残りの聖書すべてが拠り所とする基礎であり土台です。最初の書であるということは、それに続くすべての書の基礎であるということですから、創世記はその他の聖書の書巻に最も多く引用されている書であると言えるでしょう。

また、創世記は、人類の堕落についても語っています。それは、なぜ私たちの世界がもはや完全ではなく、人類も完全ではなくなってしまったのかということを説明しています。しかしながら、創世記は、この苦しみと死以外に何ももたらされない世界にあっても、神の救いの約束を私たちに示している慰めの書でもあります。

今期私たちは、創世記を読み、学ぶだけでなく、その中にある美しい物語を楽しみ、アブラハム、イサク、ヤコブの神である創造主と共に歩むより良い人生について学びます。創世記に登場するこれらの人物を見るとき、時代、地域、文化や環境は違っても、彼らの物語は多くの点において自分たちの物語でもあることに、私たちは気づくことでしょう。

                                           

日曜日:この神に対する二つの見方、すなわち、神は威厳と力に満ちた方であり、また私たちとの関係においては身近で、情け深いお方であるという事実は、礼拝において私たちがどのように神に近づくべきかを考える上で重要なポイントを示しています。畏れと畏敬の念には、喜びと神の近さ、赦し、そして愛による 安らぎが伴わねばなりません(詩編2:11参照)。神についての二つの説明の順番には意味があります。神の近さの経験と神の存在に対する親近感は、神への隔たり〔畏敬〕の経験に続くものです。私たちは神の偉大さを理解して初めて、神の恵みを味わい、おののきつつ、私たちの人生に現された神の不思議と愛の 存在を喜ぶことができるのです。

                                           

火曜日:聖書は、神がその創造の御業を「終えられた」(口語訳)からこそ、安息日を定められたと明確に宣言します。ですから、第七日安息日は、神が七日目に創造の御業を終え、それを「極めて良かった」と認めたことを信じる私たちの信仰の表明なのです。安息日を守ることは、神と共に神の創造の価値と美しさを認め、祝うことなのです。

神が御自分の仕事を終えて休まれたように、私たちも自分の働きを休むことができるのです。安息日を休むということは、私たちの肉体をも含む神の「はなはだ良かった」創造に対して、「はい、その通りです」と言うことなのです。 古代の(あるいは現代の)ある信仰とは違って、新旧約聖書の中には人間の肉体を邪悪なものとしてさげすむような思想はありません。それは異教の思想であり、聖書的な考えではありません。むしろ、安息日を遵守する民は、自分の体も含む神の被造物に感謝し、創造の御業を喜び祝い、自分の体を大切にするのです。

                                           

木曜日:神は最初の人間を造られるとすぐに、彼に三つの賜物、エデンの園(創2:8)、 食べ物(同2:16)、そして女(同2:22)をお与えになります。

「人がそこを耕し、守るようにされた」(創2:15)とあるように、神が人に与えられた第一の責務は自然環境に関わるものでした。ここに出てくる動詞「耕す」と訳されているヘブライ語「アーバド」には働くという意味があります。 賜物は受けるだけでは十分ではありません。私たちはそれを用いて働き、実を実らせなければなりません。

二番目の責務は食べ物に関するものでした。神が人に食べ物をお与えになったことを忘れてはなりません(創1:29)。神はまた人に「心のままに取って食べてよろしい」(同2:16、口語訳)と言われました。人は木々を創造しませんでしたし、そこに実る食べ物も造りませんでした。それらは恵みの賜物でした。しかし、彼らには命令も与えられていました。彼らは神から「どの木からで も……取って食べてよい」(同2:16、口語訳)と惜しみなく賜物を受け、それを楽しむはずでした。

しかし、この恵みの一部として、神は一つの制限を加えられます。彼らは1本の特別な木からは取って食べてはなりませんでした。何の制限もなく楽しむことは死に至ります。この原則はエデンの園でそうであったように、あらゆる事柄において今日も同じです。

三番目の責務は女性に関するものでした。神の三番目の賜物は、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となる」(創2:24、口語訳)というものでした。この驚くべき声明は、人の婚姻の契約に伴う責任と、1人の人を意味する「一体」となることを強調しています(マタ19:7~9と比較)

                                           

今期は創世記について学びます。はじめにには「創世記は残りの聖書すべてが拠り所とする基礎であり土台です。」と書かれています。なにゆえ基礎、土台なのでしょう。それはわたしたちの始まりがどのようにしてなされたかについて明示されています。たまたま偶然をくりかえしてわたしがいるのではなく、神さまが愛して、また愛し合うために人間を創造してくださったのです。このちがいはとても大きなもので、生きているのではなく生かされていることを知ることにより、すべてが自分の能力ではなく霊の賜物によって与えられるものと知るのです。そうすることによって生きていることが感謝に変わります。このようにいのちの始まりを知ることが生きる土台となるのです。

セブンスデー・アドベンチスト教会は、はじまりと終わりを信じる教会と前に書いたことがありました。始まりそれは創造で、終わりは再臨を待望しています。安息日を守ることは、わたしたちのすべては神さまによって活かされていることを信じることなのです。

最後に木曜日の引用文の中で、人間が罪を犯す前から与えられた三つのものについて書かれています。自然環境と働くこと、そして食べるもの、結婚です。これらは正しく用いる時には幸せになりますが、まちがって用いる時には多くの悲しみを生み出すのです。どのように用いるのかは、あなたが決めねばなりません。聖書はわたしたちはめぐみの管理者であると教えています。礼拝をする時に、神さまからのめぐみを感謝するだけでなく、どのように用いているか考えてみましょう。