安息日学校部

20220111安河内アキラ解説

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第11   信仰の創始者また完成者であるイエス   3月12日

 

暗唱聖句
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りなったのです。」 ヘブライ人への手紙 12:2

                                           

今週の聖句
ヘブライ 10:35~39、ローマ 1:17、ヘブライ 11 章、ヨシュア記 2:9~11 ヘブライ 12:1~3

                                           

今週の研究
ヘブライ11章は、信仰とは、私たちがまだ見ることができなくても、神の約 束を確信することであると説明しています。この課では、過去の信仰の勇者たちの模範から信仰とは何かを学びますが、特にその中心となるのは、「信仰の創始者また完成者であるイエス」の模範を通しての学びです(ヘブ12:2)。

                                           

日曜日:忍耐は最終時代の神の民の特徴です。忍耐なくして約束されたものを受ける ことはできません(黙13:10、14:12)。しかしながら、耐え忍ぶためには信仰を 「しっかり保〔つ〕」必要があります(ヘブ10:23、4:14)。パウロは、荒れ野世代が約束されたものを受けることができなかったのは、信仰が不足していたためだと示しています(ヘブ3:19)。ヘブライ人への手紙はまた、信じる者たちは約束の成就の入口にいるのだから(同9:28、10:25、36~38)、約束のものを受けたいと望むなら、信仰を働かせる必要があると説きます(同10:39)。

神のメッセージは続きます。「わたしの正しい者〔義人〕は信仰によって生きる」(ヘブ10:38)。パウロは同じことをローマ1:17、ガラテヤ3:11でも述べています。ローマ1:16、17は特に、神の義は「始めから終りまで信仰を通して実現される」と説明します。ここでパウロが言いたいことは、神が御自分の約束に対して忠実であることが先行し、それが結果として、私たちの信仰あるいは忠実さを生み出すということです。 このように、神が約束に忠実なので(2テモ2:13)、その忠実さに対する応答として、正しい者〔義人〕たちも忠実であり続けるのです。

                                           

月曜日:ヘブライ人への手紙は、アブラハムはこの難問を、彼がイサクを献げた後にも、神はイサクをよみがえらせることのできるお方であると信じたことによって解決したと結論づけています。これは驚くべき信仰です。なぜならそれまでに復活した者は一人もいなかったからです。しかしアブラハムのこの決断は、それまでの神の彼に対する導きから来たものでした。ヘブライ11:12は、イサクは「死んだも同様の一人の人」から神の力によって生まれた子であったと述べ、パウロはまた、アブラハムが「死んだも同様の人」であり、サラも不妊であったにもかかわらず、彼は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」たので「多くの民の父と」なったのだと述べ、それは彼が、神は「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」方だと信じたからだと言います(ロマ4:17 ~ 20)。ですから、アブラハムは、イサクに 〔彼の出生の際に〕死から命をお与えになった神は再び彼に命をお与えになるに違いないと考えたのです。過去における神の導きの中に、アブラハムは、神が将来になさることの暗示をすでに見ていたのです。

                                           

火曜日:モーセはこの信仰の章で2番目に重要な人物でしょう。モーセの人生は、王に対する二度の大胆な行動に始まり、終わっています。彼の両親はモーセが生まれたとき、「王の命令を恐れ」ず彼を隠しました(ヘブ11:23)。やがてモーセ は「王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました」(同11:27)。しかし、モーセの最も重要な行動は、「ファラオの王女の子と呼ばれることを拒ん」だことです(同11:24)。彼を養子にした母親が「ファラオの娘」であったということ は、彼は次のファラオになる候補者であったことを意味します。しかしモーセは、当時最も強力であった国家の王という栄誉を喜んで捨て、代わりに、新しく解放された奴隷の民、事実上の難民の指導者になったのです。

                                           

木曜日:イエスは少なくとも三つの意味において、私たちの信仰の「基礎」(または 「創始者」あるいは「先駆者」)です。

第一に、イエスだけがこのレースを完全に走り切りました。信仰の勇者たちはまだゴールに到達していません(ヘブ11:39、40)。しかしイエスは、天で神の安息に入り、父なる神の右に着かれました。私たちは、かの勇者たちと共に将来、イエスと共に統治するのです(黙20:4)。

第二に、イエスの完全な生涯は、勇者たちが彼らのレースを走ることを可能にしました。もしイエスがおいでにならなかったなら、彼らのレースもまた無駄なものになっていたでしょう。

第三に、イエスは私たちの信仰の基礎です。神と共におられるお方として、 彼は私たちに対する神の忠実さを示されました。神は決して私たちを救う努力をあきらめられないので、私たちもあきらめさえしなければ、最後には報いというゴールに着くことができます。イエスは私たちが不忠実であったときでさえ、忍耐をもって走り、忠実であり続けられました(2テモ2:13)。私たちの信仰は、ただイエスの忠実さに対する応答なのです。

最後に、イエスは信仰の「完成者」です。なぜなら彼はこの信仰のレースをどのように走るべきかの完全な模範だからです。彼は私たちのためにすべてを捨てることによって、すべての身分と権威を放棄されました(フィリ2:5~8)。イエスは一度も罪を犯されず、常に堅く報いを見つめておられました。それは神の恵みによって贖われた人類を見るという喜びでした。だからこそ、彼は誤解とののしりに耐え、十字架の恥をも忍ばれたのです(ヘブ12:2、3)。

さあ、今度は私たちが走る番です。私たちの力でイエスのように生きることは決してできませんが、私たちにはイエスの完全な模範があります。私たちは、イエスにある信仰によって、イエスに目を注ぎ続け(信仰の勇者たちと同じように)、彼の約束された大いなる報いを望みつつ、信仰によって前進しましょう。

                                           

今週は、ヘブライ人への手紙の11章を中心に学びます。ご存じのようにこの章は信仰の勇者列伝でもあります。聖書研究ガイドでは、その中でも第一の人物はアブラハム、次にモーセをあげています。彼らがなぜ信仰の勇者だったのかについては、月曜日と火曜日の引用文をお読みください。

彼らが信仰の勇者として信仰の戦いに勝利して歩んだのは、忍耐を続けたことでした。それは続いてヘブライ12章に罪との戦い、そして主から与えられる訓練に勝利するように勧めに続いて行きます。キリストはぶどうの木に例えて、つながっているようにとも勧めています。(ヨハネ15:1参照)これらの教えは、すべて同じことを言っているのです。わたしたちは、信仰の戦いを神さまを信頼して忍耐強く進む時に、必ず勝利をさせていただくのです。ヘブライ11章に書かれている信仰の勇者たちも、そのように歩んで行きました。この記録を読むとわたしたちの心は励まされますね。わたしたちの人生は最後まで戦いが続きます。けれども最後まで神さまに信頼して歩むものを天国へ入れて下さると聖書は約束しているのです。イエスさまの復活と昇天は、その約束のしるしなのです。