第9課 完全な犠牲イエス 2月26日
暗唱聖句
「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。 ヘブライ人への手紙 10:14
今週の聖句
ヘブライ 9:15、創世記 15:6~21、エレミヤ 34:8~22、エフェソ 3:14~19、 ヘブライ 7:27、ヘブライ 10:10、ヘブライ 9:22~28
今週の研究 ローマ時代に初期のキリスト教徒によって地下墓地に描かれた絵には、(おそらく不死の象徴として描かれたであろう)クジャク、鳩、勝利の象徴で あったシュロの葉、そして魚などが多く描かれていました。後になって、ノアの箱舟、イサクの代わりに小羊を献げるアブラハム、ライオンの穴のダニエル、魚から吐き出されたヨナ、小羊を担いだ羊飼いなどが描かれるようになり、足の麻痺した者の癒やしやラザロのよみがえりといった奇跡も描かれました。これらは、救い、勝利、そして神の配慮の象徴でした。一方、十字架は敗北や恥の象徴として人々に嫌悪される存在でした。しかし、そんな十字架が後にキリスト教のシンボルになったのです。事実、パウロは福音を「十字架の言葉」と呼びました(1コリ1:18)。
今週、私たちはヘブライ人への手紙に見られる十字架について学びます。
日曜日:神がイスラエルに与えた契約は、彼らを、彼らの嗣業である「約束の地」に導くという約束でした。しかしながら、この約束には一連の戒めに加えて、祭壇の上に血を振りかけることが含まれていました。それは、その契約を破った者の運命を示していました。ヘブライ人への手紙が、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9:22)と言うのはそのためです。
イスラエルが契約を破ったとき、神は苦しいジレンマに直面しました。契約は違反者に死を要求しましたが、神は違反者であるその民を愛しておられたからです。神がもし、見て見ぬふりをしたり、あるいは違反者を罰することを拒んだりすれば、もはや神の戒めは守られなくなり、この世界は混沌と無秩序に沈んだでしょう。
しかしながら、神の御子が御自身を身代わりとしてお献げになりました。彼が私たちに代わって死なれたので、私たちは「永遠の財産を受け継ぐ」ことができるのです(ヘブ9:15、26、ロマ3:21~26)。そのようにして、神は神の律法の神聖さを保ちつつ、同時に律法を破った者たちをお救いになりました。そしてそれは、ただ、十字架を通してのみ可能だったのです。
火曜日:「すべてのためにただ一度」という表現には、いくつかの重要な意味があります。
第一に、イエスの犠牲は完全であり、これに優るものはありません。レビ人 の祭司たちのいけにえは、「神に近づく人たちを完全な者にすることは」できなかったために繰り返されました。「もしできたとするなら……、いけにえを献げることは中止されたはず」(ヘブ10:2)でした。
第二に、旧約時代のすべての犠牲は、十字架において成就されました。ですから、イエスは私たちを罪から清めてくださっただけでなく(ヘブ9:14)、私たちの人生から罪を取り除き、私たちを「聖なる者」としてくださったのです(同 10:10~14)。祭司たちは聖所で神に近づき、人々のために奉仕する前に、彼ら自身が清められ、聖化または聖別されねばなりませんでした(レビ8、9章)。イエスの犠牲は、私たちを清め、聖なる者とすることができるので(ヘブ10:10 ~14)、私たちは「信頼しきって、真心から」神に近づくことができ(同10:19 ~23)、「王の系統を引く祭司」として神に仕えることができるのです(同9:14、 1ペト2:9)。
最後に、イエスの犠牲は、私たちの霊的人生を豊かにするものであり、私たちが守り、倣うべき模範を示すものです。だからこそ、ヘブライ人への手紙は、私たちの目をイエスに、特に十字架での出来事に目を注ぐように招き、イエスの導きに従うように招いているのです(同12:1~4、13:12、13)
木曜日:私たちの罪の赦しは、天の聖所の二つの部屋におけるイエスの仲保者としての二段階の奉仕を必要としています。第一に、イエスは私たちの罪を取り除き、 イエスを信じる者すべてに赦しを与えるために、十字架のイエス御自身の上に 罪を移されました(使徒2:38、5:31)。イエスが十字架の上で彼らの罪をその身に負うことによって、彼を信じるすべての者を赦す権利を得ました。彼はまた、聖霊によって信じる者たちの心に神の律法を置くことができるよう、新しい契約を開始されました(ヘブ8:10~12、エゼ36:25~27)。
イエスの奉仕の第二段階は、裁きの働きであり、それはヘブライ人への手紙の視点からはまだ先のことであった再臨前審判を意味します(ヘブ2:1~4、6: 2、9:27、28、10:25)。この裁きは神の民から始まることが、ダニエル7:9~ 27、マタイ22:1~14、黙示録14:7に記されています。その目的は、神の民を赦された神の義を示すことです。この裁きにおいて彼らの人生の記録が宇宙の前に公開されます。神は信じる者たちの心で何が起きたのか、彼らがどのようにイエスを救い主として信じ、イエスの霊を彼らの人生に受け入れたかを示すのです。
今週の学びではその儀式の持つ意味を、ヘブライ人への手紙からまとめています。今回は引用していませんが、聖書研究ガイドの月曜日の学びには、聖所でささげられていた5種類の犠牲について、その目的などについてわかりやすく書かれていますので、ぜひお読みになってください。
火曜日の学びに書かれていますが、聖所で予表されていた犠牲は、すべてのためにただ一度なされたもので、木曜日の学びにありますが、それは信じる者を赦し、拒んだものに裁くものです。この働きすべてをおできになるのはイエス・キリストだけなのです。パウロは犠牲制度の一つひとつがキリストの罪の赦しの働きを伝えようとしていることを、今日のわたしたちにも今週の学びで教えようとしています。