安息日学校部

20210413安河内アキラ解説

2021年第4期「申命記に見る現代の心理」

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第13   モーセの復活   12月25日

 

暗唱聖句
大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」 と言いました。
ユダ 9

                                           

今週の聖句
民数記 20:1~13、申命記 31:2、申命記 34:4、申命記 34:1~12、
ユダ 9、1、 1 コリント 15:13~22

                                           

今週の研究
申命記は神とモーセの生涯と宣教が神のご品性について多くを表していたように、彼の死と復活もまた神のご品性を表していました。イスラエルの民に対する神の愛についての書であり、神はモーセを通してその愛を示し、民にお語りになったのでした。 今期最後の、そして申命記の最後の学びをするにあたって、私たちはモーセ の生涯、その地上生涯について学びたいと思います。

                                           

日曜日:ある意味で、モーセの不満を理解することは難しくありません。主はそれまでも、しるしと不思議によって何度もお救いになり、彼らは今、ついに約束の地の国境にいました。その時、突然水が涸れたのでした。彼らはモーセとアロ ンに詰め寄ります。それまで何度も水を湧き出させられた主が今、それができないはずはありません。主はおできになるし、そうするおつもりでした。 「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(民20:10)とのモーセの言葉は明らかに怒りを含んでいます。怒り自体は大きな問題ではありません。怒りは悪いものではありますが、〔彼の怒りは〕理解できます。しかし、彼はまるで彼が岩から水を湧き出させることができるかのように、「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのだろうか」(同、口語訳)と言っています。彼はこの瞬間、奇跡を起こすことができるのは神のみであることを忘れていました。彼も、すべての民もこの事実を知るべきでした。

                                           

水曜日:この短い記述の中に驚くべき場面が描かれています。キリストご自身が、 モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったというのです。どのように言い争ったのでしょうか。モーセが罪人であったことは疑いない事実です。実に彼の最後の罪は、神に帰すべき栄光を自分に帰したのであり、「『わたしは……雲の頂に登って/いと高き者のようになろう』」(イザ14:13、14)と言って天使の頭の地位から投げ落とされたルシファーと同じ罪でした。キリストが約束されていた復活をモーセのために主張したため、モーセの遺体のことで論争が起こったに違いありません。

どうしてキリストは、律法に背いた罪人モーセのためにそんなことがおできになったのでしょうか。その答えは十字架に他なりません。すべての動物の犠牲がキリストの死を指し示していたように、主は明らかに今、十字架を見据えながらモーセの復活を主張されたのです。「罪の結果、モーセはサタンの権力のもとに置かれていた。彼自身の功績によっては、彼は当然死の捕虜であった。 だが彼は、贖い主のみ名の権威によって、永遠の命によみがえった。モーセは、栄光の体で墓から現れ出て、救い主と共に神の都にのぼった」(『希望への光』 249ページ、『人類のあけぼの』下巻97ページ)

                                           

木曜日:新約聖書はモーセが約束の地に入れなかったことは罰であったと見なしていません。地上のカナンやエルサレムでなく、遥かに良い住まいである「天のエ ルサレム」(ヘブ12:22)が彼の家となるのでした。

モーセは聖書中の死からよみがえった最初の人物です。エノクとエリヤは死を見ずに天に上げられました(創5:24、王下2:11)。しかし、聖書の記述を見る限り、モーセは永遠の命に入るために復活した最初の人でした。

モーセが死んでどれほど眠っていたかは問題ではありません。それが3時間であろうと300年であろうと、彼には同じことだからです。人類史の中で死を経験した人々の、少なくとも死の状態についてはモーセのそれと同じなのです。 私たちは死んで目を閉じ、次に目を開けるときはイエスの再臨か、不幸にして最後の裁きかのどちらかなのです(黙20:7~15参照)

                                           

今期は申命記について学んで来ました。今週は著者モーセの最後、復活について学びます。申命記がモーセの最後の説教をまとめたもので、きっとそれを誰かが記録をまとめたものでしょう。そして最後のモーセの死についても、誰かが書き加えたのでしょう。ネボ山の上での神さまがモーセに語られた場面は、申命記の編纂者に神さまが直接語られたのかもしれません。聖書が一冊の本になるまでに、語られたことばの記録や、別の場所で語られた記録などをまとめて一冊に書簡としている編纂の作業が行われています。それは人間が意図的にまとめたという考えもありますが、その中においても神さまの霊感が働いて、神さまのことばとしての聖書ができあがって行ったことをわたしたちは信じています。

そして今週は、モーセがイスラエルの地へ入ることを神さまが許されなかった原因となった事件について、民数記20章から学びます。この失敗をしてしまうのは彼の120年の人生の中の一瞬のことでした。おそらく彼が冷静であれば、あのような失敗をしなかったでしょう。けれども失敗をする時には、物事がうまく行かないことが重なったりして、イライラがつのってしまうことがあります。サタンはわたしたちが失敗をするように仕向けます。このような状況を作って、わたしたちがまちがいを犯すようにさせるのです。これは今日のわたしたちも同じ危険の中にいます。

けれども木曜日の引用文にありますが、神さまはモーセを赦して、最初に復活する人物として天へ迎えられます。このことは、神さまがわたしたちを救ってくださるお方であり、その力があることを示しています。木曜日の引用文の最後に書かれていますが、わたしたちが目を閉じたら、次に目を覚ます時は再臨か最後のさばきです。その意味でも、再臨はいつあなたのところへやってくるのかわからないのです。だからこそ、わたしたちを救う力のあるお方に、日々赦しを求めてすがっていきたいものです。

モーセの生涯は波乱に満ちたものでした。彼は王女の娘として、エジプトの王宮で暮す道を選ぶこともできました。けれども神さまのことばに従って生きることを選びました。「人が全世界を手に入れても自分のいのちを失ったら何の得があるろうか」(マルコ8:36) 神さまは、モーセの選びと服従に応えて彼を最初の復活する者として天へ迎えてくださったのです。