第12課 新約聖書に見る申命記 12月18日
暗唱聖句
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」
マタイ4:4
今週の聖句
マタイ 4:1~11、申命記 8:3、使徒言行録 10:34、ガラテヤ 3:1~14、 使徒言行録 7:37、ヘブライ 10:28~31
今週の研究 新約聖書の記者たちは、旧約聖書から直接引用したり、間接的に引喩として用いたり、旧約の物語や預言を参照したりしていますが、いずれにせよ、彼らは自分たちの主張を裏付けたり、正当性を示すために旧約聖書を用いています。旧約聖書中、(詩編やイザヤ書と並んで)最も多く引用や参照されているのが申命記です。今週私たちは、こうした例を通して、その中に示された真理と、現代の真理を引き出し、学んでいきたいと思います。
日曜日:イエスはサタンと論争はされず、ただ「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭」い神のみ言葉を引用されます(ヘブ4:12)。これらの聖句は いずれも申命記からの引用でした。イエスが荒れ野で引用された聖句は、イスラエルが同じように荒れ野で与えられたみ言葉であったというのは、興味深いことです。
最初の誘惑で、イエスは申命記8:3を引用されます。モーセは古代イスラエルに、マナや聖めの制度を含め、荒れ野で主がお与えになったものすべてを思い起こさせました。主は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、すなわち、神はあなたがたを肉体的に養うように、霊的にも養ってくださる。あなたがたは霊的な糧を無視して肉体の糧のみを得ることはできないと語られたのでした。イエスは申命記からパンの譬えを引き出すことによって、イエスの内に疑いを起こさせようとするサタンの 試みを譴責されたのでした。
第二の誘惑では、イエスは申命記6:16を引用します。モーセはマサ〔マッサ〕での民の反抗を思い起こさせて言います(出17:1~7参照)。「あなたがマッサでしたように、あなたの神、主を試みてはならない」(申6:16、口語訳)。「試みる」という言葉には、「試す」という意味があります。主はすでに、彼らに何度もみ力と善意をお示しになっていたにもかかわらず、苦難の時に彼らは訴えます。「主は我々の間におられるのかどうか」(出17:7)。イエスはこの物語からみ言葉を引き出し、サタンを叱責されました。
第三の誘惑では、サタンはキリストにひれ伏して彼を拝むように求めます。 彼が真に何者であり、真に何を求めていたかを顕わす、なんと大胆で露骨な要求でしょうか。イエスは再び論争することなく、申命記のみ言葉によってサタ ンに勝利されます。それは主の、民が主を離れ異教の神々を礼拝すること、及びその結果に対する警告でした。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申6:13)。それは「神、そして神のみ」を意味する教えでした。
火曜日:しかし、パウロは律法に反対したのではありません。ここで安息日の戒めを破ることの正当性については、何も言われていません。理解の鍵となるのは、ガラテヤ3:10です。ここに彼は、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」と書いています。そして、彼は申命記27:26を引用します。問題は律法に従うことではなく、「律法の実行に頼る」ことなのです。これは私たちのような罪の存在にとって、不可能とは言わないまでも非常に困難なことです。
パウロは、私たちが救われたのは律法の行いによるのではなく、私たちのために死なれたキリストによるのであると指摘します。その〔キリストの功績〕が信仰によって私たちのものと認められるのです。彼の強調点は、キリストが 十字架で私たちのためにされたことにあるのです。そのために、彼は申命記 21:23を再度引用します。イエスのようにパウロは、旧約聖書の権威を示すために「……と書いてある」と言います。
木曜日:興味深いことに、パウロはユダヤ人に、神に忠実であるよう勧告するにあたって、申命記17:6から、誰かが死刑に値すると判断されるには、少なくとも2人ないし3人の証言が必要であるという事実を引用します。 しかしパウロがそうしたのは、もし古い契約の下で、不忠実が死に値するな ら、「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか」(ヘブ10:29)ということを強調するためでした。つまり、あなたがたは 彼らより多くの光と真理を知り、あなたがたの罪のための神のみ子の犠牲を知っているのだから、もし神から離れるなら、あなたがたへの非難はより大きなものになるだろうということです。
その直後の30節でパウロは、彼の論点を明らかにするために再び申命記32:35を引用します。彼らがキリストにあって与えられたもの、彼らのために与えられた大いなる戒めの知識を考えるとき、「復讐はわたしのすること」であると 言われる主は、その背信と不忠実のために「民を裁かれる」のです。主は、新約時代のユダヤ人が持っていたもの、つまり十字架で示された神の愛のより完 全な啓示を持っていなかった彼らの父祖を裁かれたのです。だからこそパウロは彼らに、注意するように言っているのです。
今週は新約聖書に引用された申命記について学びます。今週の研究にも書かれていますが、新約聖書でも詩篇、イザヤ書とともに、キリストや使徒たちが申命記を用いています。彼らは神さまのことばとしての申命記の権威を認めているからこそ引用しているのです。
その中で、日曜日の引用文に書かれていますが、イエスさまがサタンから受けた三つの誘惑の際に、申命記のことばを用いてサタンへ反論しています。サタンの仕事は、わたしたちを誘惑して、神さまに背を向けるように働きます。イエスキリストが受けた三つの誘惑、石をパンに変える→肉欲、神をためす→神さまを引き寄せる、サタンを拝む→物欲、などと教えられていますが、人間が受けることが多い誘惑と語った説教を聞いたことがあります。イエスさまは誘惑に対処する模範を示されました。そのためには聖書を正しく理解をしていなければなりません。サタンは第二の誘惑ではあきからに聖書を曲解しているのです。
イエスさまを使徒たちは申命記を解釈して、その時代の教会に語りました。今期の学びが申命記に見る現代の真理とありますが、わたしたちも申命記の教えを、今日のわたしのために必要なことばとして解釈して行わねばなりません。そして神さまを信頼することによる喜びを多くの人に示すことで、神さまを人々に伝えて行くように召されているのです。