安息日学校部

20210410安河内アキラ解説

2021年第4期「申命記に見る現代の心理」

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第10    覚えよ、忘れてはならない    11月27日

 

暗唱聖句
「あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」

申命記 9:7

                                           

今週の聖句
創世記 9:8~17、申命記 4:32~39、黙示録 14:12、申命記 4:9、23、
申命記 6:7、申命記 8:7~18、エフェソ 2:8~13

                                           

今週の研究   神はしばしばその民に、神が彼らのためにされたすべてのことを、そして彼らのために示された主の恵みと慈しみとを覚えるようにお命じになります。旧約聖書の多くは、主が、主の民ヘブライ人のためにされたことを忘れてはならないとの預言者たちによる訴えから成っています。また、最も重要なことは、 彼らが主から召されていることと、その召しに応えて、彼らがどのような民にならねばならないかということを忘れてはならないということでした。「わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け」(詩 編77:12、〔口語訳77:11〕)。

今週、私たちは、申命記に示されているように、この重要な原則、すなわち神の私たちの人生への関与を忘れず覚えることについて学びます。

                                           

月曜日:それらの御業の中心はエジプトからの救出でしたが、おそらく出エジプトを超えてさらに驚くべきことは、シナイで神が彼らに直接語られたことだったでしょう。彼らは「火の中から語られる神の声を聞」くことを許されたのですから(申4:33)

主は、何の目的もなくそのようなことをなさったのではありません。神は、神の民を贖い、民と結ばれた契約の神の側の責任を果たされたのでした。彼はエジプトから解放され、約束の地を目前にしていました。神は神の分を果たされたのですから、今度は民が彼らの分を果たす番でした。そしてそれは、ただ従うことでした。

                                           

火曜日:「注意する」という言葉は(申命記4:9にも「あなた自身に十分気をつけ」と訳され、異なる形で出てきますが)、旧約聖書全体に見られ、「守る」、「見張る」、「保護する」、あるいは「用心する」という意味があります。興味深いことに、この言葉が聖書で最初に使われているのは、アダムが罪を犯す前に、主がお与えになった園を彼に「守る」ようにお命じになったときです。 しかしここでは、主は民の1人ひとりに(単数形の動詞を用いて)、忘れず、自分自身を守るように命じておられます。この「忘れる」は、記憶を失うことを意味しているのではなく(時が過ぎて、新しい世代ではそうなるかもしれませんが)、 彼らが契約の義務を怠るという意味です。つまり、自分が何者であるかを心に留め、神の前、ほかのヘブライ人の前、彼らの内にいる寄留者たちの前、そして周辺諸国の前で、どのように生きるべきかを心に留めておく必要があったことを意味していました。

                                           

金曜日:キリスト教が始まって以来、今日、ある国々の教会が享受しているほどに、富と人の満足を共にした時代はなかったでしょう。このような豊かさは確かに私たちの霊性に影響を与えます。そしてそれは良い影響ではありません。富と物質的な豊かさが、クリスチャンの自己否定や自己犠牲といった徳を育んだ時 代もあったかもしれません。しかし多くの場合、そうはなりませんでした。人々は富を手に入れれば入れるほど、自己を満足させればさせるほどに、彼の信仰は益々弱まったのです。富と繁栄は良いものですが、そこに多くの危険な霊的な罠も潜んでいるのです。

                                           

今週は、「神さまからの恵みを忘れてはならない」ことについて学びます。人間は残念ながら時間の経過とともに多くのことを忘れて行きます。自分がした失敗などを永遠に覚え続けていたら、これほど辛いことはありません。忘れることができるのは幸せなことでもあるのですが、肝心なことも忘れてしまうのは困ったことですね。

神さまは、わたしのために多くのことをしてくださいました。神さまを主として信じて従って行くためには、神さまがわたしを愛してわたしのために働いてくださったことに気づけることが大切です。洗礼を受けるためには、この出会いが必要だと考えています。けれども金曜日の学びにも書いてありますが、時間とともにまた環境が改善されると、苦しかった時に助けられたことを忘れしまいがちです。

神さまから受けた助けを忘れないために大切なことは、何をしていただいたかではなく、神さまから愛されていることを忘れないことです。教会で「あかしをしてください」とお願いすると、毎回何十年前のキリストの出会いを語られる方がいます。それが強烈な経験で、いつまで経っても色あせないことは良いことですが、神さまからの導きや助けはその時だけだったでしょうか。もっともっと日毎に導かれ祝福を受けています。神さまからのめぐみを日々感謝して、そしてあかしをバージョンアップしましょう。

それから、申命記4:9に書かれていますが、この恵みを子や孫に語りなさいと勧められています。親が神さまと出会った経験を、子どもに語っているでしょうか。父は晩年わたしにいろいろ話してくれましたが、母の入信については断片的にしかきいていませんでしたね。またわたしはクリスチャン2世ですが、それでも神さまに従おうとした思いについて娘に話しをしていないと思います。あかしを自分の中で留めておかずに、一番身近な家族に語りましょう。そして聞いてみましょう。あかしを通して自分だけでなくまわりの方々へも祝福が広がって行くものです。