安息日学校部

20210402安河内アキラ解説

2021年第4期「申命記に見る現代の心理」

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第2    モーセによる歴史の教訓      10月2日

 

暗唱聖句  「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」コリント第一 10:3、4

                                           

今週の聖句

申命記 1~3 章、出エジプト記 32:29~32、民数記 14 章、

エフェソ 3:10、 創世記 15:1~16、ヨハネ 14:9

                                           

今週の研究   広義において申命記は、贖いの歴史の最も重要な時代にあって、主が神の民をどのように創造し、維持し、贖い続けておられるかを示す書でもあるのです。 モーセは彼らに歴史の教訓を語りますが、その主題は聖書全体を通して繰り返される、「過去に主があなたがたにされたことを忘れるな」というものでした。 これは、より良い「約束の地」の国境にある私たちにとっても意味を持つ勧告です。

                                           

日曜日:モーセはこの罪とは無関係だったにもかかわらず、彼らのために自分の魂 〔永遠の命〕が失われることさえいとわず、この罪深い民のために神にとりなします。驚くべきことに、出エジプト記32:32でモーセは、神に「彼らの罪の赦し」を求めながら、実際には自らが彼らの罪を「負う」ことを願います。 モーセはこの罪の重さとその贖いを求めることが何を意味するかをよく理解していました。彼らの罪であれ、どんな罪であれ、最終的に罪が赦されるために は、唯一この方法しかないことを知っていたからこそ、モーセは神に彼らの罪を「負う」ことを願ったのでした。

このように、やがて神ご自身が、人となられたイエスによって私たちの罪に立ち向かい、その罰を受けられるという身代わりが、聖書の初めのほうに力強く表されています。身代わりこそが、神の統治と律法の原則に忠実でありながら人類を救済する(あらかじめ定められた)神の方法だったのです。

                                           

月曜日:モーセは約束の地を調べるために、カデシュ・バルネアから斥候を送り、民はその地を取るようにとの神の召しを拒みます。そのために彼らは約束の地に入ることができなくなり、40年もの間待つことになります。「あの土地を偵察した40日という日数に応じて、1日を1年とする40年間、おまえたちの罪を負わねばならない。お前たちは、わたしに抵抗するとどうなるかを知るであろう」 (民14:34)。

こういうわけで、申命記は、神が彼らにお命じになった通りに、正確に第四〇年を記録しているのです。言葉を変えれば、神の預言のみ言葉は、神ご自身のように信じるに足るものなのです。申命記の最初の数節の中に、私たちは、主の預言の確かさの証拠を見ることができます。神は言われた通りに事をなし、定められた時に事をなすお方なのです。

                                           

火曜日:主のご臨在は確かなものでしたが、それでも彼らには組織が必要でした。部族を大小に組分けし、よく意思疎通が図れるようにする必要がありました。イスラエルは組織的な人の集まり(カハル)でした(申31:30参照)。それは新約時代の「教会」を表すギリシア語(エクレシア)の先駆けとなる組織でした(マタ16:18)。異なる文脈においてではありますが、ユダヤ人のルーツから決して遠くないパウロは、1コリント12章に、申命記に見られる荒れ野のカハルに当たる教会が、キリストのからだとして正しく機能するためには、さまざまな役割にふさわしい人材が必要であるとはっきりと述べています。現代の教会は、当時のカハルとして、与えられた賜物に応じたさまざまな役割を果たす人々による一つのからだとなる必要があります。

私たちは時折、「組織的な」宗教に対する批判を耳にしますが(彼らは「無秩序な」宗教を望むのでしょうか)、神のみ言葉、特に新約聖書は他の何物でもなく、組織的な教会を認めています。

                                           

水曜日:モーセが神に訴えたことを考えてみましょう。「もしあなたがこのようなことをなさるなら、この地に住む諸国民たちやエジプト人たちの目には、どのように映るでしょうか」。この論点が重要なのは、最終的に神がイスラエルになさったことは、すべてが彼らのためであったわけではなく、人類全体のためでも あったからです。イスラエル国民は、世の光となり、古代の人々に愛と力と救いは真の神の内に見いだされるのであり、当時の人々が拝んでいた価値のない 偶像の内にはないことを証しするために召されたのでした。

言い換えれば、私たちはここに聖書全体を貫くテーマを見るのです。それは、神の栄光はその民によって表されるという思想です。神の栄光と慈しみ、そして愛と力は、その民を通して神がなさることによって神の教会の中に表されなければなりません。もちろん、それは神の民にとって容易なことではありませんが、最終的に、地上におけるすべての神の行為を通して神に栄光が帰されるのです。

                                           

今期の学びは、申命記の中のさまざまな主題ごとに、現代のわたしたちに語りかけているみことばについて学びます。今週は、モーセが出エジプトから約40年間についてふりかえっている場面について学びます。今週の研究にありますが、モーセが最も伝えたいことは「過去に主があなたがたにされたことを忘れるな」というメッセージでした。問題は次々に発生し、そのたびに不安に襲われます。けれども今まで乗り越えてくることができたではないか。そこで神さまがどのように働いてくださったかを思い出しなさいとモーセは訴えているのです。彼らが砂漠の中で旅をしている時に、神さまのお支えがなければ、彼らはすぐに飢えて死んでしまったでしょう。ここまでされたのは、水曜日の学びに書かれていますが、彼らを通して神さまの愛と力を表すためでした。

また月曜日には預言のたしかなこと、そして火曜日には組織の必要性について教えられています。預言は終末時代においても、わたしたちに進むべき道と希望を示しています。また組織は力をあわせて働きを前進するために必要不可欠なものです。新しい地へ入る目前に語られたみことばは、わたしたちも天国を目指して行く道の途中で、同じように耳を傾けて行く必要があるのではないでしょうか。