第10課 安息日の休み 9月4日
暗唱聖句 「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。」 レビ記23:3
今週の聖句 創世記1:26,27、創世記9:6、2 ペトロ2:19、ローマ6:1~7、 出エジプト記19:6、ヨハネ5:7~16
今週の研究 セブンスデー・アドベンチストとして私たちは、神の道徳律の永続性を理解し、律法が命じるように第四条に従うのですが、それは第五条、第六条、第一条やそのほかの戒めに従うことよりも重要な、天国に行くための努力ではないことも理解しています。
今週私たちは、神が安息日の戒めの中に与えてくださった休みについてさらに学び、またそれがなぜ重要なのかについて考えます。
日曜日:十戒の中で、第四条だけが「覚えて」(口語訳)という文節を伴っています。「盗んではならないことを覚えて」とも、隣人の家を欲してはならないことを覚えて」とも言われてはいません。「安息日を覚えて」だけなのです。
「覚える」〔英語では「思い出す」〕という概念は、過去の出来事を、つまり、私たちが覚えておく必要のあることが過去に起きたことを前提とします。私たちは何かを思い出すとき、過去の記憶をたどります。ですから、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との戒めは、創造週そのものを前提としているのです。
神が私たちの世界を創造されたことを理解することは、創造時に私たちに与えられた責任をも思い起こさせます。私たちは、被造物を「治め」なければならないのです。治めることは利己的な搾取を意味しません。私たちは、神の統治者として治めねばなりません。私たちは神がされるように、この自然界と交わらねばなりません。
罪はすべてを呪い、混乱させましたが、この地球はなお神の創造物であり、私たちにはこれを不当に搾取する権利はありません。特にしばしば地上に見られる、ほかの人類に危害を与える権利はないのです。
火曜日:彼らの門の内にいる見知らぬ人、イスラエルに与えられた契約の約束に(まだ)あずかっていない者たちであっても、安息日の休みを同じように楽しむべきです。人類はもちろん、動物たちでさえ、搾取されたり、虐待されたり、支配されたりしてはなりません。毎週、ヘブライ人は、(そして私たちも)自分たち以外の人々と多くの共通点があることを思い起こさねばなりません。ほかの人々にはない祝福と特権にあずかっていても、私たちは同じ人類家族の一員であることを忘れず、ほかの人々に敬意と尊厳をもって接するのです。
木曜日:神の安息日は、常に、私たちの起源を、私たちの解放を、私たちの運命を、そして社会から見捨てられ、周辺に追いやられている人々に対する私たちの責任を思い出させてくれます。事実、安息日はあまりに重要なので、私たちがそこに行く代わりに私たちのところにやって来て、毎週例外なく、私たちがだれなのか、だれが私たちを造られたのか、神が私たちのためにしてくださったこと、そして、神が新しい天と地を造られるときに、最終的に私たちのために何をしてくださるかを思い出させてくれるのです。
先週に引き続いて今週も安息日について学びます。日曜日の引用文で安息日を「覚えて」と十戒第4条には書かれています。第七日安息日を守ることは、わたしたちの存在すべてを神さまから与えてくださっているものであることを信じることと、以前も書きました。けれどもわたしたちは弱いので、それを忘れがちです。誇り高ぶり様々な罪も犯します。けれどもこちらの都合とは関係なく、安息日がやってくることによって、わたしたちはいのちの基本について再び思い起こすことができるのです。神さまはわたしたちのためにこのような制度を設けられました。
そして、いのちがどこから来ているのかを再確認すると同時に、いのちが与えられた目的についても考えねばなりません。日曜日の引用文に「搾取や虐待」などをするのではなく、いのちを治めるようにと十戒には書かれています。また火曜日の引用文にもありますが、自分たちだけでなく家畜や使用人、そしてコミュニティの中で暮している外国人にも同様に休みを与えるようにと書かれています。弱い立場にある人のことを考えることこそが治めることなのです。子どもの時に、暗唱聖句で十戒を覚える時「しもべ、はしため・・・」などとここを覚えるのにとても苦労したことを思い出します。けれども今でも忘れない聖句となっています。与えられたいのちを、いかに用いているのか、安息日は休むだけでなく再確認をする時でもあるのです。