第8課 休む自由 8月21日
暗唱聖句 「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦とりで/わたしは誰の前におののくことがあろう」
詩編27:1
今週の聖句 マルコ2:1~12、列王記上18 章、列王記上19:1~8、マタイ5:1~3、 イザヤ53:4~6、列王記下2:11
今週の研究 今週私たちは、二つの全く異なる癒やしに注目します。1人目の患者は、あまりに症状が重いために、自分でイエスのもとに来ることさえできませんでした。彼の症状は、だれの目にも明らかでした。もう1人の症状は、外見には現れないものでした。しかし2人とも、神の時に、神の方法で癒やされました。
私たちが痛みと苦しみからの休みを探し求めるとき、クリスチャンとして歩む中でだれもが、一度や二度は一つの問いに思い悩みます。それは、癒やしを求める祈りが答えられないとき、何が起きているのかという問いです。
そのようなとき、私たちはどうやって休みを見いだすのでしょうか。
月曜日:私たちは通常、症状が出るまで病気に気づかないため、その症状が病気であると考え、そうした症状を取り除くことが癒やしであると考えます。イエスの治療法は違います。彼は、すべての痛みと病気の根源をご存じでしたので、まずそれを癒やそうとしているのです。
この男の場合、イエスはまず病気の症状を取り除くのではなく、まっすぐにこの男を最も苦しめているものに向かい合われます。彼は、病気以上に、罪悪感と神との離別で苦しんでいたのです。神の内に休む人は、この罪の世における肉体的な苦しみに耐えることができます。だからこそ、イエスは彼の苦しみの根源にまっすぐに向かい合い、まず赦しをお与えになったのでした。
イエスが赦しを宣言されたのを聞いて、宗教指導者たちはショックを受けます。彼らの心の中の譴責に対して、イエスは一つの質問を提起されます。
火曜日:残念ながら、うつ病は信仰が足りないしるしだという考えがあり、キリスト教界では、それを口にするのを控える傾向があります。クリスチャン人生は常に喜びと幸せに満ちているのでしょうか。うつ病は、神との私たちの関係に何か問題があるしるしなのでしょうか。
ほとんどの人は、そのような考えが間違っていることを知っています。忠実なクリスチャンでさえ、時にうつ病に苦しむことはあります。それは、神への信頼や信仰が足りないしるしではありません。詩編を読むと、そこに神に忠実な人々ならではの痛み、苦しみ、そして苦悩を見ることができます。
うつ病は、ゆっくりと静かに私たちを捕らえ、その支配力が強まったときに気づきます。また、精神的、肉体的に疲れ切るような出来事の後には、あっという間に襲われます。例えば、神の忠実な預言者エリヤは、カルメル山の対決の後、精神的にも肉体的にも完全に疲れ切っていました。
木曜日:神はエリヤが長い距離を走り、疲れているのをご存じでした。神は彼が肉体の疲れ以上に、精神的な疲れを感じ、さらに測り知れないほどの罪悪感に苦しんでいるのをご存じでした。イエスが中風の男を何十年もの苦しみの後に癒やされたように、神は彼の過去をきれいにぬぐい去り、彼に休みをお与えになります。ついに、彼はぐっすり眠り、元気を取り戻すことができました。
私たちは、これでこの物語が終わるのを期待しますが、そうはなりません。神の休みは一時のことではありません。神の休みに入ることは、癒やしを伴わねばなりません。その癒やしは、ゆっくりと、否定的な思考パターンと人の心身を破壊する習慣を捨てさせます。神は癒やしを急がれません。
今週は、中風の男の癒しと、列王記上18,19章のエリヤの歩みから学びます。聖書の読み方として、善と悪との戦いが天地創造前から続いていることを根底にあることを忘れてはいけません。そう考えるとカルメル山でのエリヤの働きは、善と悪との戦いの大勝利となります。彼は神さまのことばに従って、バアルの預言者たちと対峙して、そして目の前で神さまの大きな働きを見ました。この勢いで一気に攻勢をと考えても良いのですが、王の妻イゼベルが復讐に燃えていると聞いて、逃げて行ってしまったのでした。神さまの方を見ないで、イゼベルの方を見たから恐れてしまったのだという考えもあるでしょう。たしかにそうかもしれません。けれども彼は、カルメル山の決戦の何年も前から、アハブ王や偶像礼拝者と戦ってきたのです。その極限の戦い及んで勝利した時に、火曜日の引用文にもありますが、彼はうつ状態になってしまったのです。「神の忠実な預言者エリヤは、カルメル山の対決の後、精神的にも肉体的にも完全に疲れ切っていました。」と書かれています。その彼に対して神さまは、引き返してイゼベルと戦えとはおっしゃらず、休みを与えられたのです。
今日、うつ病で苦しんでいる方々はたくさんいらっしゃいます。またうつ病とまでは行かなくても、心の限界が近づいて、うつ状態にある方も多いかもしれません。教会の中でも同様です。彼らの事を信仰が足りないからと考えてしまう方がいるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。うつ病は心の病気なのです。信仰を強めれば、再び立ち上がれるものではありません。そのために神さまから与えられる平安と適切な治療、そして教会の理解も必要なのです。
10年ほど前のことでした。わたしの友人(クリスチャンではない)がうつ病と戦っていましたが、最後に自らいのちを絶ってしまいました。彼の枕もとで悲嘆にくれているご両親に、わたしは「これは病気なんです。癌などで闘病して人生の終わりを迎えたのと同じなんです」と語りました。数年後に、彼のお父さんから、あの時に病気と言っていただいて、どれだけ救われたかと話してくださいました。
わたしたちは罪の世で生きています。その中にあって、さまざまな病などとの戦いも続きます。その中で最善の治療法を摸索しながら闘病生活を続けますが、必ず人生の終わりを迎えます。信仰が強ければ、病が近づいて来ないのではありません。人生の終わりがどのようなかたちで近づいて来ても、神さまの守りと導きを信じて、天国の希望を目指して歩むことこそが、神さまの子どもとして歩みではないでしょうか。