安息日学校部

202103007安河内アキラ解説

2021年第3期「キリストにある休み」

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第7    「休み、関係、そして癒し」       8月14日

 

暗唱聖句  「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」
創世記45:5

                                           

今週の聖句
創世記42:7~20、マタイ25:41~46、創世記42:21~24、創世記45:1~15、ルカ23:34、創世記50:15~21

                                           

今週の研究   今週は、赦しと赦しが人間の不安な心に何を与えるかを学びます。

                                           

月曜日:ヨセフは兄たちを赦していました。ヨセフが彼らを赦した時がいつであったか、正確にはわかりませんが、彼らがエジプトに来るずっと前であったことは明らかです。もしヨセフが兄たちを赦していなかったなら、彼はエジプトで成功することはできなかったでしょう。なぜなら、ほとんどの場合、怒りや憎しみは、その人の魂をむしばみ、主との関係にダメージを与えるからです。

他者によって負わされた悲劇を乗り越えた人々についての幾つかの研究は、最も恐ろしい苦しみを経験した被害者が癒やされ、再び加害者と共に生活できるようになる鍵は、赦しであると強調しています。赦せない限り、私たちは被害者のままです。赦しは、加害者の問題でなく、私たち自身の問題なのです。

                                           

火曜日:赦しを学ぶための鍵の一つは、疑いもなく、私たちがキリストにあって赦されていることを知ることです。私たちはみな、ただ人に対して罪を犯しただけでなく、神に対して罪を犯したのです。

罪の一つひとつは、紛れもなく、私たちの主、造り主に対する罪なのです。しかし私たちはイエスにあって、それらの罪はすべて赦されたと言うことができるのです。それは、私たちが赦されるに価するからではなく、そうではなく、ただ私たちに対する神の恵みによるのです。私たちがこの聖なる真実をつかむとき、私たちがこの赦しを自分のものとするとき、私たちが神の赦しを現実に体験するとき、私たちは他者からされたことを忘れて、他者を赦し始めます。私たちは、他者が赦されるに価するから赦すのではなく、私たちが神から赦されたから、そして赦すことが私たちに必要だから赦すのです。一方、私たちも同じように、神の赦しに価する者ではないことを忘れてはなりません。

                                           

水曜日:赦すためには、まず私が傷ついていることを認めなければなりません。これは難しいことです。私たちは時に、そのような感情に向かい合うのではなく、忘れ去ろうとする傾向があります。クリスチャンには似つかわしくない憤りや怒りといった感情でさえ、神の前にそれらを認めることは良いことです。私たちは詩編の中に、しばしばそのような表現を見ます。私たちは、自分に起きた不愉快なこと、自分がされて嫌だったこと、悲しかったこと、怒りなどを神に遠慮せずに語っていいのです。

ヨセフの物語の中でも、彼が兄弟たちに再会して泣き、彼の中に過去の感情がよみがえるのを見ます。

                                           

木曜日:ヨセフは自分の人生が、世界を飢饉から救うため、そして家族が、神の約束の成就の助けとなるために大いなる国民とされるという、神の大きな計画の一部であることを堅く信じていました。神が、兄たちの悪だくみをも支配して善に変えられたことを知ることが、ヨセフが彼らを赦す助けになりました。

                                           

この二週間、ヨセフの生涯を通して休みについて学んでいます。月曜日の引用文の中で、ヨセフはお兄さんたちを赦していたと書かれています。ヨセフの生涯で、彼が心の中でほんとうに休みを得るためには、お兄さんを赦すことしかありませんでした。それがいつからなされたのか聖書には書かれていません。奴隷、そして牢屋へ送られ絶望の中で、このような状況へ追い込んでいったお兄さんの事を恨んだことでしょう。ヨセフが今週の暗唱聖句を語ることができるまでどれだけ苦しんだことでしょう。彼はお兄さんに会った時、彼らを皆殺しにできる力を持っていました。しかし神さまが幼少時の夢で語られたことの意味がはっきりとして行く中で、木曜日の引用文にあるように、神さまがすべてを導かれていることを確信して赦すことができたのではないでしょうか。

わたしたちの人生において、なぜこんなことになるのかと疑いたくなることに出会うことが多々あります。けれどもわたしたちは、今という時間しか生きることができません。神さまは必ずわたしを導いてくださることを信じて、時を待つことも必要なのです。そして水曜日の引用文にあるように、痛みや苦しみを神さまに遠慮せずに語ることができるのです。苦しみの最中で、今起こっている人間関係の平面のできごとだけを見ていると、解決を見つけられず苦闘します。神さまとわたしたちの天と地の関係に目を向けてください。きっとそのから新しい光が与えられ、問題解決の糸口となって行くことでしょう。