第5課 「わたしのもとに来なさい……」 7月31日
暗唱聖句
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
マタイ11:28
今週の聖句
マタイ11:20~30、マタイ5:5、申命記18:15、ガラテヤ5:1、
出エジプト記18:13~22、ガラテヤ6:2
今週の研究
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
なんとすばらしいイエスによる約束でしょう。重荷を負っていないという人もいるかもしれません。仕事上では、それほどの重荷はないという人があるかもしれません。しかし結局のところ、人生そのものが重荷であり、人は生きることに疲れを覚えるのではないでしょうか。ですから、イエスはこのように言われるのです。主は私たちが負っている重荷をご存じで、私たちを助けることがおできになります。─もし、私たちがそれを望みさえすれば。
日曜日:私たちが重荷を下ろす前に、1人では重荷を抱えきれないことを理解する必要があります。実際、真の状態を理解しない限り、私たちは主のもとに行こうとしないでしょう。イエスの招きは、私たちが彼を必要とすることが前提です。
彼のマタイ11:28のみ言葉は、原語のギリシア語では命令形で始まっています。「来なさい」は、選択の余地を残していません。「来なさい」は休みを得るための前提条件なのです。「来なさい」は支配される必要を意味します。スマートフォンによって多くのことを便利に支配できる現代にあって、イエスのもとに「来る」ことは自然なことではありません。事実、支配されることは、ほとんどのクリスチャン人生において最も難しいことです。
私たちは、神がキリストにおいて私たちのためにしてくださったすべてのことや、自力では救われない者であると話すことを好み、それらはすべて正しいことです。しかし、私たちは最終的に自分の意思でイエスのもとに「来る」という選択をする必要があります。それはイエスへの屈服です。クリスチャン人生の初めであり中心である、自由意思を与えられた意味がここにあるのです。
月曜日:マタイ11:28の最初の命令の後に、更に二つの命令が続きます。「負いなさい」と「学びなさい」は、聴衆(と読者)の注意をイエスに向けさせます。私たちはイエスの軛を負い、イエスから学ばねばならないのです。
マタイ11:25~27で示されている、父なる神と子なる神の親密な関係は、軛という比喩を説明する良い例です。父と子は、共に人間を救うために一致して働いておられます。軛は服従のシンボルですが(エレ27章)、目的のために一致することの比喩でもあります。私たちはイエスの軛に屈服して、周囲の人々を祝福するために主がお与えになる仕事を受け入れるのです。私たちは主の軛を負わされるだけではありません。イエスの軛は「負いやすく」、イエスの荷は「軽い」ので、軛でイエスに繋がれるのです(マタ11:30)。
「わたしに学びなさい」は、この思想の繰り返しです。ギリシア語の「学ぶ」という動詞は、「弟子」という語と共に用いられます。イエスから学ぶとき、真にイエスの弟子となるのです。服従と献身は弟子の特徴です。
水曜日:イエスと共に歩く道は、必ずしも平坦ではないかもしれません。しかし、それは必ず、私たちの幸せに繋がる正しい道なのです。私たちはつまずき、倒れることもありますが、起き上がって隣におられる主と共に歩き続けるのです。
パウロが言う「奴隷の軛」は、神の律法である十戒に対する服従を意味していないことは確かです。それどころか、信仰によって服従することを通し、律法によってではなく、キリストの義が私たちを覆うことによって救いが保証されていると理解します。それによって、真の休みと自由を得るのです。
木曜日:イエスが私たちに、彼の重荷は軽いと言われたとき、イエスに頼ることを思い出してほしかったのです。私たちはモーセのように、他者と重荷を分かち合う必要があります。1コリント12:12~26にある、パウロのキリストの体の譬えは、重荷を分かち合うことの良い例です。私たちは、どんな物でも運ぶためには、それぞれ体の部位がきちんと機能しなければなりません。足、腕、肩、筋肉、そして腱が共に機能する必要があります。
今週の暗唱聖句も、とても有名な聖句です。そしてこの約束にどれだけ多くの人が救われたでしょう。人生は、それぞれ重荷を負って生きています。それは生まれながらに負わされているものもあるでしょう。また日毎の仕事の中での責任などもあるかもしれません。その重荷を神さまのもとへ持って来なさいと招かれています。
この招きは、どのような意味があるのでしょうか。まず神さまが最善の道を開いてくださることを信じて、ゆだねることです。神さまはわたしがやらねばならないことをかわりにやってはくれません。わたしたちは黙って見ていればよいわけではありません。けれども自分一人で問題の前にもがき苦しんでいる時に、必ず解決の糸口を与えてくださり、助け導いてくださるのです。二番目に生きる目的を変えて行くことなのです。自分のために働こうとして苦しんでいるわたしたちが、いのちが与えられている意味を理解すると、同じ働きでも神さまの手足となって、だれかの幸せのために働くことが目的となり、まったくちがうものとなって行くのです。月曜日の学びの中に、神さまからの二つの命令として「負いなさい」「学びなさい」とありますが、神さまに重荷をゆだねることにより、重荷を背負う目的が変わり、またイエスさまの歩まれた道を学ぶことによって、わたしたちはキリストの弟子として高められて行くのです。