第4課 休みのコスト 7月24日
暗唱聖句 「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
詩編51:12
今週の聖句
サムエル記下11:1~27、サムエル記下12:1~23、創世記3:1~8、1 ヨハネ1:9
今週の研究 真の休みにもコスト(代価)がかかります。自己啓発セミナーの主催者たちは、(自分のスケジュールも含めて)運命は自分で決定できるものであり、平安も自分の選択と計画次第で手に入るものだと言います。しかし正直なところ、私たちは心に真の休みを見いだせないでいることに気がついているのです。
私たちは今週、神の御心にかなった人物の生涯を概観し、どのようにして神にある休息の本当の価値を見いだしたかを学びます。
日曜日:実際に、律法は安全を確保し、保護するものとしてあるのですから、王であってもその外に踏み出すなら、恐ろしい結果に直面するのです。ダビデは、神の律法に背くやいなや、すぐに彼の人生のすべての面で、その結果を感じ始めます。ダビデは、その情熱に身を任せたふるまいはだれにも気づかれていないと考えましたが、夫が戦地にいたはずのバト・シェバは妊娠したのです。
月曜日:ダビデが知らずに自分自身に死の宣告を下したとき、ナタンは彼に告げます。「その男はあなただ」(サム下12:7)。そう告げるには、さまざまな語調が考えられるでしょう。大声で叫ぶのか、人差し指を顔の前に突きつけて糾弾するのか、あるいは配慮と思いやりを持って諭すのか。ナタンの言葉には、憐れみのにじむ厳しさがあったはずです。その瞬間、ダビデは、主の御心の外に踏み出してしまった神の息子、娘に対して神がお感じになる痛みを感じたことでしょう。ダビデの心に何かがひらめきました。彼の心を何かが切り裂いたのでした。
火曜日:詩編51編でダビデは、彼の心の内を公に表し、罪を告白しています。ダビデの憐れみを求める叫びは、神の変わることのない愛とその大いなる憐れみに訴えます。ダビデは新たにつくり変えられることを慕い求めます。
私たちがイエスにある休みの価値を考えるとき、まず外からの助けが必要であることを知る必要があります。救い主を必要とする罪人である私たちは、数々の罪を知りながらも、洗い、清め、新たにすることがおできになる唯一のお方に向かって叫ぶのです。そのとき、私たちは勇気を得ます。ここには、姦淫、隠ぺい、殺人、そのほか少なくとも、十戒のうち五つの戒めを破った者がいます。それでもなお、彼は助けを求め、神の赦しの約束を公言するのです。
木曜日:1ヨハネ1:9は詩編51編を短くまとめています。ダビデが、「打ち砕かれ悔いる心を/神……は侮られ」(詩編51:19〔口語訳17節〕)ないことを知っていたように、ヨハネは、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださ」ることを保証しています(1ヨハ1:9)。私たちはみ言葉通りに神を信じるのです。さてダビデは、家族に対する行為と悪い模範による恐ろしいダメージを修復することができませんでした。彼は、自分の下した決断と行動の結果に苦しみました。それでもなお、ダビデは赦されていることを知っていました。彼は、いつの日か、神の真の小羊がおいでになり、身代わりとして立ってくださるとの信仰により頼む必要を知っていました。
今週は、ダビデ王が誘惑に負けてしまった場面から学びます。罪を犯させようとする誘惑は、とても甘いものです。けれども情欲に流されて誘惑に負けた後は、とても苦い結末が待っています。罪意識に襲われて、逃げても隠れても平安がありません。ほんとうの休みを得るためには、罪を認めて、赦してもらうしか道はありません。
近年、様々な心の病が問題になっています。複雑化した現代社会において、自宅にまでも仕事は追いかけてきて、どこでも働こうと思えば働くことができる人はいます。そのために仕事を離れて休みを取るように勧められますが、仕事の中で起こっている問題が解決していなければ、いくら休みを取っても現実逃避に過ぎず、休んだ先でも問題のことを考え続けてしまったら、心の休みにはなりません。ほんとうの休みを得るためには問題を解決しなければならないのです。
そのためには、問題に立ち向かわねばなりません。理由を誰かのせいにしたりするのではなく、自分で真正面からとらえて行かねばなりません。ダビデ王は、預言者ナタンに罪を指摘された時に、言い訳をせずに自らの罪を認めて、そして赦しを求めたのです。
わたしたちは正しく生きようとしていても、まちがいを犯すことがあります。そしてそれが時間が経ってから発覚することや、自分の中で罪意識に襲われることがあります。けれども今さらどうしようもできません。不完全な人間が、自分の力で罪を解決することができません。だからこそ、神さまの赦しが必要なのです。そのために木曜日の学びに書かれていますが、自分の罪を公に言い表すのならばとあります。これは罪を人々の前に公表することではありません。原因はいろいろあるでしょう。けれどもしっかりと向き合って、自分の罪であることを認め、謝罪が必要な場合は互いに和解をする時に、神さまは赦してくださるのです。