安息日学校部

202103003安河内アキラ解説

2021年第3期「キリストにある休み」

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第3    不満の根      7月17日

 

暗唱聖句
「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」 ヤコブ3:16

                                          

今週の聖句
マタイ10:34~39、ルカ12:13~21、フィリピ2:5~8、ルカ22:14~30、マタイ23:1~13

                                          

今週の研究   今週私たちは、私たちの不満の根がどこにあるのかについて学びます。イエスにある真の休みから、私たちを引き離すものはたくさんあります。そのあるものは注意して見なくてもはっきり目に見えていますが、あの巨大なポプラの根のように、地面の下にあって目に見えないものもあります。私たちを救い主から引き離すそのような態度や行為は、気づかないうちに根を張っている場合があるのです。

                                          

月曜日:利己心は、イエスにある真の休みから私たちを引き離す「罪」と呼ばれる、地下にはびこるポプラの巨大な根の一部のようです。私たちの生活に現れるすべての罪の中で、利己心は最も簡単に表面化するものではないでしょうか。私たちにとって、利己心はほとんど呼吸のように、当たり前のものになっています。

フィリピ2:5~8は、無私、謙遜、そして愛の青写真を描いています。もし私たちの選択と優先順位が、神と人への愛によって動かされていないなら、私たちはなおも、自分のために地上にもっと多くの倉を建て、天にはより少ない宝を積むことになるでしょう(マタ6:20)。

                                          

火曜日:イエスにある真の休みを見いだすためには、改心、つまり心を入れ替えることが必要です。私たちはまず、外からの助けが必要であることを理解します。私たちは自分に頼ることはできないこと、そして突然、イエスに頼る必要があることを理解します。そして、私たちの価値観と野心がつくり変えられるのを経験します。イエスは弟子たちにお語りになります。「わたしを信じ、子供のように私を信頼しなさい。真の偉大さは、あなたがたの権利を放棄し、神の国の価値観を喜んで自分のものとすることです」
残念ながら、弟子たちは、イエスが彼らと最後の晩餐を共にされたときでもなお、まだこの教訓を学んではいませんでした。
イエスと共に働き、イエスに聞き、イエスの足もとで学んだ数年を経てもなお、彼らは学んでいなかったのでしょうか。人間の心がいかに堕落しているかを示す、なんと悲しい例でしょう。しかし、絶えることのない主の憐れみという、この場面の積極的な面に目を向けましょう。彼に従う者たちのこの情けない議論にもかかわらず、イエスは彼らをお見捨てにならなかったのです。

                                          

木曜日:真の安息は、道であり、真理であり、命であるイエスから始まります。主は、この世界で目標を見失い、さまよっている私たちの進むべき正しい方角をご存じです。なぜなら、主ご自身が天の律法の制定者であり、人となられた真理であり、主の御霊が私たちをすべての真理に導いてくださるからです(ヨハ16:13)。私たちが傷つき、疲れ、弱り果て、病み、そして勇気をなくしているときも、
イエスは私たちにとって、ほかのどんな命とも異なる真の命なのです。事実、主は私たちに豊かに命を得させると約束してくださっています(ヨハ10:10)。この約束には、私たちの永遠の住まいと永遠の命が含まれるだけでなく、この地上の人生の質が変わることも伴います。創造主は今も豊かに、測り知れないほど与えることがおできになるのです。

「心を騒がせるな」とのみ言葉は、将来に期待して生きるようにとの招きです。私たちの心が沈むときにも、主は私たちの心を引き上げてくださいます。私たちが暗闇と罪に苦しむときにも、私たちの内に善い業を始められたお方はまた、その業を成し遂げてくださるのです(フィリ1:6)。

                                          

殺人、盗みなどを罪と呼ぶことをだれも否定はしません。けれども罪は、このように表に出てくることだけを言うのでしょうか。今週の学びは罪の根について学びます。暗唱聖句をご覧ください。混乱や悪の行いの原因として、ねたみや利己心を挙げています。さまざまな行為には動機があります。嫉妬や妬みがあるから、相手の行為をゆるせなくなり、様々な悪の行為が起こるのです。

ヤコブの手紙の3章13節~4章の終わりまでをお読みください。このような想いをいだいてしまう原因として、3章14,15節に、まず第一に悪魔的なものであると書かれています。聖書の中には聖霊が結ぶ実と、悪霊による肉による働きの結果結ぶ実について書かれている場所がたくさんあります。(ガラテヤ5:19~24、ローマ1:29、コロサイ3:5~17参照) 第二の原因は高慢です。誘惑をされてもわたしたちがそれに負けなければ良いのです。けれども自分の力に頼っている時に、わたしたちは誘惑に負けてしまうことが多くなります。聖書はくりかえして自らの弱さを認めて謙遜に生きるように勧めているのは、このためなのです。ヤコブ4章で、神に近づきへりくだるように勧めています。(ヤコブ4章6~10節)

不満の反対は感謝です。自分のことを中心に考えていると、待遇、境遇などの不遇が目について不満になります。けれどもだれかの幸せのために何ができるだろうと考えて働く時に、神さまからの幸せを届ける通路にあなたがなることで、喜びと感謝が満たされて行きます。わたしたちがどちらを向いて生きるのかが問われているのです。ヤコブは神さまの前でへりくだるものを高くしてくださると約束しています。そうすることによって不満が感謝へ変えられて行きます。