安息日学校部

202103002安河内アキラ解説

2021年第3期「キリストにある休み」

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第2  不安と反抗心      7月10日

 

暗唱聖句
「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。

コリント第一10:11

                                           

今週の聖句
民数記11:1~33、民数記12:1~13、民数記13:27~33、

民数記14:1~23、1 コリント10:1~11、民数記14:39~45

                                           

今週の研究
今週私たちは、人間の感じる不思議な不安について学びます。それは、地震のような自然災害によるものではなく、堕落した人類の根本的な罪深さによるものであり、キリストが、信仰と服従によって彼に来る者すべてにお与えになる平安を拒ませるものです。

                                           

火曜日:カレブの介入にもかかわらず、疑い深い者たちと懐疑論者たちの声が打ち勝ちます。イスラエルは、神が約束されたものを取るための行動を起こしません。心は不満で満たされ、彼らは勝利の行進と叫びの代わりに嘆きとつぶやきを選びます。

心に不満があると、私たちは信仰によって歩むことに困難を覚えます。しかしながら、不満は私たちの感情に影響を与えるだけではありません。科学者たちは、(睡眠不足を含めて)休みがあまりに少ない状態と、誤った選択、肥満、嗜癖、そして更なる不満と不幸との間には、直接の因果関係があると述べています。

物事は、悪い状態から最悪の状態へと進みます。「ただ、主に背いてはならない」(民14:9)とのカレブの必死の訴えも顧みられず、共同体全体は彼らの指導者たちを石で打ち殺そうとします。不満は反逆へと導き、反逆は究極的に死へと導きます。

                                           

水曜日:モーセは嘆願します。「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください」(民14:19)。主の恵みは反逆と、そして、その中心にある不満と闘います。赦しは、新たな始まりを提供します。
しかし、そのために代価が払われます。人々は赦されましたが、この世代の人たちは約束の地に入ることが許されないのでした(民14:20~23)。これは裁きのように見えますが、実は恵みなのです。この世代が主に頼ることを学んでいないとするなら、どうして強大なカナンの都市国家を征服することができたでしょう。彼ら自身が闇の中につまずいていながら、どうして異邦の民の光となることができるでしょう。

                                           

木曜日:歴史を通して神の民は、約束の地を求めて荒れ野をさまよってきました。この荒れ野にはさまざまな顔があります。現代社会においては、それは圧倒的な情報という砲弾の嵐、鳴りやまない携帯電話の着信音、そして、深く終わりのない享楽のざわめきであるかもしれません。この社会は、愛と称してポルノ雑誌を売りつけ、諸問題の解決は物質主義にあると言います。もうちょっとフィットネスに励めば、もうちょっと若くなれる、もうちょっと流行に乗れば、もうちょっと魅力的になれる─こうした欲望が、人間のすべての問題を生み出しているのです。
私たちはイスラエルの人々のように、心の平和を求めながらも得られず、そしてあまりにしばしば、間違ったところにその解決を求めるのです。

                                           

今期はキリストにある休みについて学びます。休みを得るためには、肉体的な休みだけでなく、精神的な休みも必要です。今週と来週は精神的に休みを取ることができない原因について学びます。その原因は不安と不満です。どちらも現状に満足ができず、将来を心配して不安になったり、置かれている境遇に不満を述べてしまうのです。

不平や不満ほど組織の力を弱めるものはありません。けれども同じ状況に置かれていても、一方では不平不満を述べる人がいて、かたや神さまに感謝ができる人がいるのです。この差は何なのでしょう。それは神さまとの正しい関係にあるかではないでしょうか。わたしたちの人生ではすべてうまく行くわけではありません。困難の原因はわたしたちの罪が引き金になっていることもあるでしょう。そして試練に襲われているかもしれません。それらすべてを含めて神さまが越えられない苦しみは与えられない、わたしたちの成長のために困難に襲われることをゆるされていると信じる時に、不平や不満に勝利できるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事を感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:16~18)この聖句はパウロが書簡の最後に、クリスチャンとして生き方を勧めている中の一部です。辛くても喜ばねばならないと考えると余計に辛くなります。辛く苦しいことがあっても、神さまを見上げる時に喜びと感謝になります。だから真ん中にお祈りがあるのです。