第10課 新しい契約 6月5日
暗唱聖句
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」
エレミヤ書31:31
今週の聖句
エレミヤ31:31~34、マタイ5:17~28、ホセア2:20~22(口語訳18~20)、
イザヤ56:6、7、ヘブライ8:7、8、ヘブライ10:4、マタイ27:51
今週の研究 新しい契約と古い契約の間には、どんな共通点がありますか。契約において、律法はどんな役割を果たしますか。契約はだれと結ばれましたか。ヘブライの信徒への手紙の「更さらにまさった契約」とは、何を意味するのでしょうか(ヘブ8:6)。契約と天の聖所の間には、どんな関係がありますか。
日曜日:明らかに、「新しい契約」は、シナイ山でイスラエルと結ばれた「古い契約」と大きく異なるものではありません。事実、シナイの契約の問題は、それが古いとか時代遅れだということではありませんでした。問題は、それが破られたことにありました(エレ31:32)。
上記の問いの答えはすべて、上記の聖句の中にあり、「古い契約」の多くの面が新しい契約の中に残っていることを証明しています。「新しい契約」はある意味、「更新された」契約なのです。
水曜日:古い契約の問題は、契約そのものにではなく、民がそれを信仰によって理解することに失敗したからでした(ヘブ4:2)。新しい律法が古い律法より優れているのは、イエスによるのです。つまり、(古い契約では)動物の犠牲を通してのみ示されていたキリストが、今は現実のキリストの死と大祭司としての働きの中に表されています。言葉を変えれば、古い契約において提供されていた救いは、今も新しい契約において同じように提供されているのです。しかしながら、新しい契約の中には、契約の神と、堕落した人類のために神が示し続けておられる愛が、よりはっきりと、さらに完全な形で啓示されているのです。
しかし今、私たちには、象徴、型、実例の代わりに、私たちの罪のためにその血を流された屠ほふられた小羊としてだけでなく(ヘブ9:12)、私たちのために天で奉仕しておられる大祭司として立たれるイエスご自身がおられるのです(同7:25)。イエスが提供される救いは同じですが、新しい契約の中に、より完全な形で啓示されているキリストご自身と、キリストのうちに見いだされる救いが、新しい契約を古い契約よりもまさったものにしているのです。
木曜日:ヘブライの信徒への手紙は、天の聖所の大祭司としてのイエスに非常な強調点を置いています。事実、新約聖書で最もはっきりと新しい契約を提示しているのも、キリストを大祭司として強調しているヘブライの信徒への手紙です。これは偶然の一致ではありません。キリストの天での奉仕は、新しい契約の約束と複雑に結びついています。
旧約時代の聖所の奉仕は、古い契約の真理が教えられるための手段でした。その真理の中心となるものは犠牲と仲保でした。動物が殺され、祭司はその血によって仲保の務めを果たしました。もちろんこれらは、イエスの中にのみ見いだされる救いを象徴していました。殺された動物たちの中にも、動物たちによっても救いはないのでした。
まとめ:新しい契約は、贖いの計画の、より優れた、より完全な、より良い啓示です。私たちは、私たちの心に記された律法に従うことによって表される信仰によって、この計画の一部となるのです。
今週は、旧約聖書の中に書かれている、新しい契約について学びます。新しい契約はキリストの十字架と復活によって発効します。けれども旧約聖書の中には、新しい契約が結ばれるという希望についての約束が多く書かれています。今週の前半は、この約束について学びます。古い契約は破棄されて新しい契約が結ばれたのでしょうか。これはキリスト教会の中においても、考えが分かれます。
古い契約も新しい契約もわたしたちの罪が赦されて。永遠のいのちが与えられることについて、契約の結果であるわたしたちが受けるめぐみは変わりません。そしてそのために神さまの約束を信じること、信仰によって義とされることも変わらないのです。旧約聖書での書かれている罪の贖いのために動物の血を流す犠牲制度も、罪の赦しのためですが、やがて実現するキリストによる十字架の贖いの予表に過ぎませんでした。動物の血が流されることで罪が赦されたのではなく、将来与えられるキリストの犠牲の象徴だったのです。そう考えると、古い契約と新しい契約が継続しているものであり、同じ内容なのです。
もうひとつ大きな問題は、日曜日の引用文にもありますが「契約が破られた」ことの結果として、ユダ王国は滅びでバビロン捕囚となってしまったのです。エレミヤ書やエゼキエル書には、彼らが捕囚から解放されるという約束と同時に、契約の破ってしまった民に、新しい契約による救いの約束も書かれているのです。新しい契約の希望には、捕囚を経験している彼らを愛し続けてくださっている神さまの愛が表れているのです。