安息日学校部

202102003安河内アキラ解説

2021年第2期「約束―神の永遠の契約」

PDFダウンロード

第3  すべての未来の世代 4月17日

 

暗唱聖句
「しかし、ノアは主の好意を得た。」
創世記6:8

                                           

今週の聖句
創世記3:6、創世記6:5,11、創世記9:12~17、イザヤ4:3,黙示録12:17

                                           

今週の研究
神の創造の御業に対して、罪は何をしましたか。ノアはどんな特徴を備えた人物でしたか。ノアとの契約に際して、どんな要素が考慮されましたか。洪水前に結ばれたノアとの契約の中に、神の恵みはどのように表されていましたか。洪水の後に神が人類と結ばれた契約は、神の私たちに対する普遍的な愛について、どのように教えていますか。

                                           

月曜日:ここに、聖書で最初に「恵み」という言葉が出てきます。(創世記6:8口語訳参照)これは明らかに、新約聖書に描かれている、受ける価値のない罪人に施された神の憐あわれみであり、功績なしに与えられた好意なのです。ですから、ノアは正しく、全き人であってもなお、功績なしに与えられる神の好意を必要とする罪人だったと考える必要があります。その意味において、ノアは主に従うことを誠実に求める私たちと何ら変わらない人間だったのです。

                                           

火曜日:この状況は特殊なものではありますが、この契約の中に基本的な神と人間との関係が見えます。(創世記6:18参照)「わたしの契約」をノアと結ぶことによって、神はここで再度、その恵みを示しておられます。ここで主は、罪の結果から人類を救うために、主ご自身が喜んでまず、行動を起こされます。言葉を変えれば、この契約は、互いに依存し合う同等な立場の者同士が結ぶような契約ではないということです。しかし、神にもこの契約によって「利益」はあるのです。それは、私たち人間の感覚での利益とは根本的に異なるものです。神の利益とは、主の愛する者たちが永遠の命を得るということなのです。そしてそれは、主にとって決して小さな満足ではありません(イザ53:11)。しかし、主がお受けになる利益は、同じ契約の受益者として私たちが受けるのと同じであると考えるべきではありません。

                                           

木曜日:この聖句の中に(創世記7:23参照)、聖書にある「残りの民」という思想が初めて登場します。「残った」と訳されている言葉は、旧約聖書では「残りの者」という意味で何度も用いられる別の言葉をその語根としています。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです」(創45:7、強調付加)。
「そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得るものとして書き記されている」(イザ4:3、強調付加)。
「その日が来れば、主は再び御手を下して/御自分の民の残りの者を買い戻される」(イザ11:11、強調付加)。これらの聖句の中で、強調を付加した「残りの者」はみな、創7:23に見られる「残った」と関連する語です。

                                           

まとめ:今週私たちは、神がノアと結んだ契約は、聖書の中でも他に類を見ない契約であることを学びました。それらの契約は、神の人類家族に向けられた憐あわれみ深い関心と、彼らを救いの関係に入らせたいとの主の願いを表しています。神はノアと結んだ契約を、ノアが神に従う決心をしたときに、再度是認されます。ノアの決心は、結果的に、彼を世界に広がりつつあった背教から守り、彼と彼の家族を大洪水という恐ろしい裁きから救うことになるのでした。
「この雲の中に現れた〔虹という〕しるしは、人類すべての信仰を確かなものとし、彼らの神に対する信頼を不動のものとするためであり、人間に対する天の憐れみと善意の象徴となるのであった。こうして神は、洪水によって地を滅ぼすことをやむなしとされながらも、その憐れみはなお地を覆っていたのである」(『贖いの物語』71 ページ、英文)。

                                           

聖書を読んでいると、愛に満ちた神さまと、とても厳しい神さまの姿が書かれています。どちらも神さまの姿だと思います。十字架の上で悔い改めた人に天国を約束された神さまと、ノアの洪水の際に8名以外のすべてが滅ぼされてしまった神さまも同じ神さまなのです。

人間が創造されて、エデンの園から追放されて、彼らは人間として地上で営みを始めて行きました。創世記4章を見るとカインの子孫の中に、家畜を飼うものの先祖となった、琴や笛を執る先祖となった、刃物を鍛える先祖となったなどという記録があります。文明が発展している様子がわかりますね。カインの子孫は年齢が書かれていませんが、おそらくアダムの系統と同じくらいと考えれば900歳前後まで生きたのでしょう。そしてアダムの子孫については年齢しか書かれていませんが、きっとこの中にも新しいことを始めた人はいたでしょう。以前も書きましたが、わたしたちは現代文明の恩恵を受けていて、様々な機械に囲まれています。けれどもそれを作ったわけでなく、使わせてもらっているだけなのです。停電になるとたちまち身動きがとれません。けれどもこの時代の方々は、何も無いところから様々なものを生み出していったのです。そして60歳などまだまだ若者だったのでしょう。自分を考えてみても20歳代のころに比べて多くの経験を積んで成長をしています。もし今、20歳代の体力と気力があったら、どれだけの仕事ができただろうと思うことがあります。けれども同時に、若いころの慎ましい姿がなくなって、だんだん厚かましくなってきています。これに体力が伴っていたら、とんでもない悪行をしているかもしれません。それが900歳までとなったら、やはり神さまが悲しみのうちにも洪水を起こすことを決断せざるを得なかったのかもしれません。

悪魔はわたしたちが愛の神さまへ信頼しないように働きかけます。神さまは残忍で、罪を赦さないお方だと思わせようとします。罪を愛し続け、離れようとしない人を神さまは救うことができません。けれどもその中で神さまに従って生きようとする人を必ず救ってくださいます。それはこのような時代にあっても、神さまのことばを信じて箱舟に入ったノアと家族を救われたことがたしかなしるしなのです。この約束は、現代を生きるわたしたちも変わらないものです。

そして木曜日の学びにありますが「残りの民」という思想が初めて登場します。聖書の中には、神さまのことばを守る残りの民がいたことを、いつの時代にも書かれています。残りの民は、人間の伝統や慣習などに従うのではなく、みことばに従って生きていきます。そしてそれだけではなく、神さまの愛を伝えるために働いて行きました。自分たちが残りの民だからと安心するのではなく、与えられた光を伝える役割があるのです。