安息日学校部

20210106安河内アキラ解説

2021年第1期「イザヤ―わが民を慰めよ」

PDFダウンロード

第6  神を演じる 2月6日

 

 

暗唱聖句
「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。」
イザヤ25:9

                                           

今週の聖句
イザヤ13 章、イザヤ13:2~22、イザヤ14 章、イザヤ24~27 章

                                           

今週の研究
イザヤは、アッシリアに続いて、バビロンがユダを征服するのを見ました。しかし彼は、人間を越えた力を持つ闇の世の主権者(エフェ6:12)が、神に敵対する人間を通して働き、大胆にも神を演じようとするのを見ます。にもかかわらず、主は敢然として打ち勝ち、苦しむ私たちの惑星に永遠の平和をもたらすのを見たのでした。

                                           

火曜日:イザヤ14 章、エゼキエル28 章は、神をも恐れぬ尊大さについて記しています。そして、ここでその描写は、地上の王に対する描写を超え、より鋭い神の目線から、次のように語ります。「この誇り高い君主は神の園であるエデンいた。彼は油注がれ、翼を広げて覆う守護のケルブとして神の聖なる山にいた。創造された日から彼の中に罪が見いだされるまでは完全であったが、神によって投げ落とされ、遂に火で焼き尽くされるだろう」(エゼ28:12~18)。この修辞的な表現は、人間を指すにはあまりに比喩的です。しかし黙示録12:7~9 は、天使たちと共に天から投げ落とされたこの力ある者を、「サタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙12:9)、エデンの園でエバをだました者(創3章)と呼んでいます。
サタンは、高慢な妄想を抱きました。「……『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは……神ではない」(エゼ28:2、口語訳)。サタンの死が、神でないことを証明するでしょう。キリストとは違って、サタンは火の池に投げ込まれて滅び(黙20:10)、二度と、宇宙を悩ますことはないのです。

                                           

水曜日:ベテルの「天の門」とバビロンの「神々の門」は、天の領域への正反対の方法でした。ヤコブの階段は、元々天にあったものが、神によって〔地上の人間に〕示されました。しかし、バビロンの塔とピラミッド型の神殿は、人間によって、地上から天に向かって建てられたものでした。この正反対の方法は、救いに至る対照的な道を示しています。つまり、神の恵みによるのか、人間の行いによるのかです。すべての真の宗教は、ベテルが模範です。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェ2:8、9)。しかし、律法主義と「世俗的な」人道主義を含むすべての偽りの「宗教」は、高慢なバビロンを模範とするものです。この対照は、イエスの「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」に見られます(ルカ18:9~14)。

                                           

木曜日:イザヤ13、14 章と同様、バビロン帝国に見られる数々の特徴は、後の諸権力に当てはまります。また、「バビロンの王」は、人間の支配者たちと、背後で操るサタンを表しています。したがって、バビロンは倒れたとのメッセージ(イザ21:9)は、後の時代にも繰り返されうるのです(黙14:8、18:2)。サタンが最終的に滅ぼされるのは、キリスト再臨の後です(同20:10)。バビロン帝国の滅亡は、「主の日」(イザ13:6、9)として成就しましたが、もう一つの「主の大いなる恐るべき日」(ヨエ3:4〔口語訳2:31〕、マラ3:23〔口語訳4:5〕、ゼファ1:7 と比較)は、まだ成就していません。
黙示録は、それが実際に成就するのは、新エルサレムにおいてであると述べています(黙21:2)。

                                           

今週学ぶイザヤ書24~27章は、神さまによる最後の勝利が預言されているため、イザヤ書の黙示録と言われています。イスラエル王国やユダ王国を滅亡させるアッシリアやバビロンの帝国、そしてそのバビロンも滅ぼされてと聖書は預言をしています。そしてそのとおりに成就しているのです。すべての人は平安で穏やかで、互いに愛し合って生きることを望んでいます。それが実現するのは永遠の御国においてなのです。この時代は、これから国の行く末に不安が感じられる時に、イザヤを通して黙示的な預言によって希望の約束が語られました。他のキリスト教会では、この部分は聖書を編集する段階で、後から加えられたと考えている人も多くいます。聖書を解釈する時に、このように理性で理解できる方法を用いようとすることがあります。けれども聖書は生きている神さまの言葉なのです。だからこそ未来の希望についての預言が書かれているのであり、それが成就しているのです。わたしたちはこのことばを信じています。

今週の暗唱聖句はイザヤ書25章からです。この25章の約束の中に「すべての民のために」と書かれているのです。選民であるイスラエルの民の救い、また信じる者を救うためではなく、この救いはすべてに人に向けられているのです。このすべての民には、あなたがきらいな人もその中にいるのです。わたしの信じている神さまの愛は、それだけ大きく広い愛なのです。