第5課 いと高き平和の君 1月30日
暗唱聖句 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、 力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 イザヤ9:5
今週の聖句 イザヤ8:23~9:4(口語訳9:1~5)、イザヤ9:5、6(口語訳9:6,7)、 イザヤ9:7~10:34(口語訳9:8~10:34)、イザヤ11章、イザヤ12:1~6
今週の研究 イザヤの時代に、神は「主の救い」という名前の方が、国家的な背信の結果として彼らの上に下った圧制から、残りの民を救うことを約束されました。この希望の預言は、究極の意味で、「主は救い」という意味の名前を持つイエスのうちに成就します。
月曜日:これに当てはまるお方は、唯一、神のみ子にして創造主なるイエス・キリストだけです(ヨハ1:1~3、14、コロ1:5~17、2:9、ヘブ1:2)。「キリストがこの世においでになられた時、サタンはすでに地上にいて、飼い葉桶からカルバリーに至るまで、キリストの歩まれるすべての道で、その前進しようとする歩みの一歩一歩を邪魔した。サタンは、彼にとってまったく意味のないことである他者のための自己犠牲を天使たちに要求される神を非難した。それは天でのサタンの神に対する非難であり、後にこの邪悪な者が天から追い出されてからも、彼は主に対して、ご自分ではされない奉仕を強制される方だと言って非難し続けた。キリストは、これらの偽りの告発に答えるために、そして父なる神を現わすために地上においでになったのである」(『セレクテッド・メッセージ』Ⅰ巻406、407ページ、英文)。
火曜日:ここで、聖書全体を通して語られている自由意志の現実について考える必要があります。神は、人間を自由な存在としてお造りになりました(そうでなければ、人間は決して真の意味で神を愛することはできないからです)。この自由は、過ちを犯す選択肢を含みます。神は、時間をかけて何度も、その愛とご品性を現わすことによって、私たちが主に帰るよう懇願されます。しかし同時に、神は、私たちが自らの誤った選択の結果として、痛み、恐れ、悩みなどを刈り取ることをお許しになります。これらはすべて、神から離れたとき、人はどうなるかを私たちが知るためです。自由意志は、かけがえのないものです。自由意志がなければ、私たちはもはや人間ではありません。しかし、この尊い賜物を誤って用いる人のなんと多いことでしょうか。
木曜日:主は救いを与えるだけではなく(イザ12:2)、主ご自身が救いです。私たちのただ中におられるイスラエルの聖なるお方は、私たちのすべてです(同6節)。神が私たちと共におられます。イエスは奇跡を行われただけではなく、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです(ヨハ1:14、強調付加)。イエスは十字架の上で私たちの罪を負われただけではなく、私たちのために罪となられたのです(2コリ5:21)。イエスは平和を生み出すだけでなく、私たちの平和そのものなのです(エフェ2:14)。間違いなく、「エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ」(イザ11:10)ます。
今週は、イザヤ書9~11章を学びます。8章で神さまに従わず心霊術に頼った王様について学びました。心霊術は悪魔の働きです。彼らも霊なる存在なので、未来のことをあてることができるんです。だからこそ人が惑わされやすいのです。
そして9章はキリスト誕生の預言に入って行きます。今週の暗唱聖句5節は、ひとりのみどりごが生まれるとあります。この「みどりご」という言葉は、赤ちゃんを指す言葉であることはわかりますが、無学なわたしにとっては、聖書のこの箇所でしか読んだことがありません。何か特別な意味があるのか調べてみましたが、みどりごとは漢字では嬰児と書きますが、生まれてすぐの赤ちゃんのことを指すそうです。みどりごという言葉の日本語の起源を調べてみたら、紀元701年に発布された日本最初の成文憲法「大宝律令」の中に、生まれたばかりの赤ちゃんのことを、「みどり」と表記しているそうです。諸説があるようですが、あかちゃんをみどりと称したのは、若葉などのイメージから来ているそうです。
10章では神に従わない国への裁きが書かれて、10章20節からは多くの背信の中でも、残された者が神さまのもとに帰っていると預言されています。彼らが帰るところとして11章では天国の情景が書かれています。聖書の預言は、神さまに従わない偶像礼拝者などが、人間の目から見たら強く大きくなりますが、必ず神さまが勝利されること、そして誘惑に負けずに悪と抵抗をした残りの民がいること、そして最後の神さまの勝利するという流れになっています。わたしたちは、その残りの民として、まことの神さまを信頼して礼拝することを伝えて行かねばなりません。