第3課 あなたの世界が危機に直面するとき 1月16日
暗唱聖句
「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」 イザヤ7:9
今週の聖句
イザヤ7:1~9、イザヤ7:10~13、イザヤ7:14
今週の研究 神は、不信仰な王アハズを難しい判断を迫る環境に置かれました。信じるか信じないか、それが彼に与えられた問題でした。主は、彼の想像力で理解できるしるしを与え、さらに信じる理由を求めることさえお許しになられたのに、彼はそれを拒み、主を信じる代わりにアッシリアの王を「友」に選んだのでした。
月曜日:シリアとイスラエルの脅威は去り、ユダは守られました。しかし、アハズ王は正しい決定を下すために、主と主の約束に信頼するべきでした。彼が確かにされるためには、信じる必要がありました(イザ7:9)。「信じる」と「確かにされる」という言葉は、同じヘブライ語の語源を持っており、「真理」(「信頼すべきもの」の意)と「アーメン」(「真実で信頼すべきものに賛同する」の意)も、同じ語源から派生した言葉です。アハズ王は、確かなものとされるために、主のみ言葉を確かにする必要がありました。信頼されるものとなるために、主に信頼する必要がありました。
火曜日:アハズは、神を試すことを拒むことによって、外面的には神を煩わせないようにしているようで、実はそのことが神を煩わせているのだ、とイザヤは指摘します。しかし、この節で最も難解な点は、イザヤがイザヤ7:11 で、アハズ王に対して、主なる「あなたの神」にしるしを求めよ、と言っているのに対して、同13 節では、はっきりと「わたしの神」をも……と言っていることです。アハズが天の申し出を拒んだ時、彼は主を「わたしの神」とすることを拒んだのです。この時、主はイザヤの神ではありましたが、アハズの神ではなくなったのでした。
木曜日:「インマヌエル」という名前は、単なる抽象的な表現ではなく、「神われらと共にいます」という約束が成就されたことの確証です。
これほどの安心と慰めはありません。神は、その民に、耐えなければならない困難や苦痛は与えないとは、約束されていません。神は、「彼らと共にいる」と約束しておられるのです。詩編記者は言います。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」(詩23:4)。
今週は、イザヤ書7章について学びます。イザヤ7:14のキリスト誕生の預言がとても有名で、わたしたちはしばしばこの聖句を引用します。けれどもこの聖句の前後を読んだり、どのような状況で語られた預言なのか気づいていませんでしたね。
この預言は、アハズという王に向けて書かれています。彼はイザヤが預言者として働き始めたころ亡くなったウジヤ王の孫でヒゼキヤ王の父です。そして彼は神さまに従っていないかった王でした。アハズ王の時代には、スリヤと隣国イスラエルの王が攻めてきます。この時に、主はイザヤを通して「信じれば守る」と約束されます。これが今週の暗唱聖句です。神さまはわたしたちに、困難な状況の中で何を信頼するのか問われることがあります。この時代、北にはアッシリア、南にはエジプト、この間に立って小国ユダはどちらに着くのかを問われ続けます。これにユダ王国末期になるとバビロンが盛んになって攻めてくるのです。このような時代に、預言者を通して語られた神さまの声に、従わなかったとアハズ王のことを非難することは簡単です。実際に目の前に大軍が攻めてきている時に、どのように対処するかで、何に信頼しているかがわかるのです。このような時に目に見えない神さまに頼ることがほんとうの信仰なのです。これは今日でも同じです。わたしたちにも危機が襲ってくることがあるでしょう。その時に、できることの最善を尽くして神さまに従う時に、道が開かれます。信じることを通して信仰が強められ、そしてまた神さまに近づいて行くことができるのです。
神さまに従おうとしないアハズ王の決断の後に、キリスト誕生の預言が語られています。これは一見するとつながっていないように思われますが、王が神さまに信頼せずに背を向けて、その結果戦いに敗れても、神さまは選んだ民を導いて、そこにキリストを誕生させてくださるという愛の表現であり、民を見捨てずに守る約束が与えられているのです。けれども7章の後半には、アッスリヤに侵攻されることが預言されています。キリスト誕生の預言は、目先のことを見るだけでなく、神さまがこの世をすべて愛されて救うためにキリストを送ってくださるという約束なのです。