第12課 行動する愛 3月20日
暗唱聖句
「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」
イザヤ60章3節
今週の聖句
イザヤ59 章、イザヤ59:15~21、イザヤ60:1、2、イザヤ61 章、イザヤ61:2
今週の研究
神は、反逆者たちを取り去ることによって、そして人々を神から引き離してきた罪から離れる残りの者たちを回復することによって、不条理な社会を清められます。神のご臨在の祝福によって、諸国の民は神と神の民に引き寄せられ、一緒にメシアによって宣言され、もたらされる神の恵みの時を楽しむことができるのです。
日曜日:罪とは本来、神を拒むこと、神から離れて行くことです。罪の行為はそれ自体、神から離れて行くことであるだけでなく、その行為の結果がさらに罪人を主から離れさせるのです。罪が私たちを神から引き離すのであって、神が罪人を遠ざけられるのではありません(事実、聖書は初めから終わりまで、罪人を救おうとされる神の記録に他なりません)。罪が、私たちに神からの救いの申し出を拒ませるのです。このようなわけで、私たちの生活の中のどんな罪も大目に見ないことが、非常に重要なのです。
月曜日:〔神の目には、キリストの死によって贖いが完成した以上、〕良い行いや律法への服従が人を贖うには遅すぎるのです。罪の世にある律法の目的は、救うことではなく、罪を示すことです。
〔良い行いとは〕「愛によって働く信仰」(ガラ5:6、口語訳)なのです。つまり、聖霊によって私たちの心に注がれる神の愛が、イエスにある生きた信仰となって、私たちを行動させるのです(ヤコ2:26 参照)。
行いは、〔内にあるものが〕外に現れたにすぎません。救いの信仰が、人間を通して現れたものなのです。したがって、真のクリスチャン経験は、主に対する日ごとの献身の中に現れるものであり、律法に対する服従となって現れるものです。裁きにおいて、神は行いを、神のように〔人の〕信仰の思いを読むことのできない被造物〔人間〕のための証拠として、お用いになります。しかし、回心した人にとっては、キリストと聖霊によって人生に力が与えられた、回心後の行いだけが裁きに関わるのです。回心前の罪の生活は、小羊の血によってすでに洗い清められているからです(ロマ6 章参照)。
木曜日:ナザレにおられた時、イエスはメシアとしてイザヤ61 章を、「主の恵みの年」のところまでお読みになり(イザ61:2、ルカ4:19、いずれも口語訳)、そこでやめて、次のように言われました。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21、口語訳)。つまり、イエスは意図的に、次に出て来る「神の報復の日」(イザ61:2、口語訳)という言葉をお読みにならなかったのです。捕らわれ人をサタンの暴虐から解放するために、メシアの良い知らせ、解放、そして慰めの働きはすでに始まっていましたが、報復の日はまだ来ていなかったのです。マタイ24 章には(マコ13 章、ルカ21 章と比較)、イエスが弟子たちに、将来の天の裁きの到来を預言なさる場面が記されています。
実に、イザヤ61 章の「神の報復の日」とは、「主の大いなる恐るべき日」(ヨエ3:4〔口語訳2:31〕、マラ3:23〔口語訳4:5〕)のことであり、その日にキリストは敵を打ち破り、虐げられた彼の残りの民に自由を与えることによって、惑星地球を不法から解放するために再びおいでになるのです(黙19 章をダニ2:44、45 と比較)。このように、キリストは「主の恵みの年」の始まりを宣言されましたが、再臨において、その恵みは頂点に達するのです。
今週は、イザヤ書59~61章を学びます。それぞれの章の冒頭部分にメッセージがまとめられています。59章は、神さまがわたしたちを遠ざけたのではなく、神さまに背を向けてしまっている人間が原因で壁ができてしまっているという事実が書かれています。60章の冒頭は有名な聖句です。この地上は暗闇ですが、そこへ朝日の光が差してくると明るくなっていくのと同じように、神さまの光が届くことによって明るい世界へ変わって行くと預言されています。61章は、その福音の光をわたしたちが伝えるように召されています。
聖書は、この世界は闇であるが、必ず神さまが勝利されること、そして罪を赦す救いの道を開かれることを、くりかえして預言されています。ここまでは、わたしたちの功績によって与えられるものではなく、愛の神さまがわたしたちに無償で与えてくださるものです。だから福音なのです。この稿で何回も書いていますが、神さまのなさることとわたしたちがすることは別なのです。わたしたちが与えられた光を、他の人に伝える働きが神さまから託されています。61章には貧しい人や捕らわれている人に伝えるようにとあります。神さまの愛が最も届いていないような方々にこそ、伝えるように求められているのです。それは福音がすべての人に向けて与えられているから、このような訴えがなされているのです。すぐに、そのようなことはできないかもしれません。けれどもそのような器として用いてくださるようにお祈りして行きましょう。必ず神さまがあなたを用いてくださいます。