安息日学校部

20200412安河内アキラ解説

2020年第4期「教育―天国に備える教育」

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第12課  安息日 ―神のご品性を体験し、生きる 12月19日

 

暗唱聖句
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 マルコ2:27,28

                                           

今週の聖句
創世記1、2 章、出エジプト記16:14~29、イザヤ58:1~14、
マタイ12:1~13、ルカ13:10~17

                                           

今週の研究
天地創造は、たった一つの物語で説明するには深すぎます。まず私たちは、完璧な審美眼を持っておられる芸術的で力強い創造主について学び、次に、関係の神に出合います。この神は、人間がほかの人間やほかの被造物を愛し、思いやることを望んでおられる方です。

                                           

火曜日:イスラエルの人々は、(礼拝や断食によって)神に従う者のようなふりをしていましたが、礼拝後の彼らの生活の仕方は、彼らが正しく振る舞っているふりをしているにすぎないことを示していました。神の律法に対する心からの誠実な献身ではなかったのです。イザヤは58 章において、神がご自分の民に期待しておられることを続けて明らかにしています。
話はここで終わりません。イザヤ58:13、14(口語訳)を読んでください。神はなぜ、この章の最後で安息日に焦点を合わせておられるのでしょうか。預言者イザヤは、ここで似通った言葉を用いています―「あなたの楽しみをなさず」「おのが道を行わず」「おのが楽しみを求めず」「むなしい言葉を語らない」と、彼は警告しています。言い換えれば、安息日は、決まりきったように礼拝をし、結局、自分の考え事をし、礼拝とは無関係な生活を送ってしまう時間ではないということです。安息日は、「喜びの日」「尊ぶべき日」であるべきです。

この章の残りの部分を踏まえると、安息日は、神のご品性と目的を学ぶことを喜び、そのご品性や目的を他者との関係の中で生かすための日です。安息日を形式的に守り、礼拝を形式的に行うことを知っているだけでは、十分ではありません。学ぶことは生き方に影響しなければなりません。安息日は、優先順位を学び、それを実行するための時なのです。

                                           

水曜日:安息日に対するイエスの態度は、今週の暗唱聖句によくまとめられています。「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」(マコ2:27、28)。イエスは、安息日が重荷になるべきでないことを強調したいと望まれました。安息日が「定められた」(創造された)のは、人間が、安息日を設けられた神のご品性を学び、神の被造物を大事にすることによって経験的に学ぶ特別な機会としてでした。
イエスは、ご自分の行動を通して疑問を投げかけることで、弟子、ユダヤ人指導者、そして群衆に、聖書と、彼らの信仰や神が意味することについて、もっと深く考えるよう迫られたのです。私たちのだれもが、(それ自身は悪いものではないかもしれない)規則や掟に容易にとらわれて、それらが目的のための手段ではなく、目的そのものになってしまいます。目的は、私たちがお仕えする神のご品性を知ることでなければなりません。そしてそれが、キリストの義の功績に対する私たちの信頼に基づく神への忠実な服従をもたらすのです。

                                           

木曜日:パウロやほかの人たちも、聖書の文脈の中で彼らの個人的経験や理解がいかに理にかなっているかを示しました。彼らは情報を提供し、議論し、話し合っています。説教し、教え、話し合う中で、個人的あかしと聖書を結びつけることは、非常に説得力がありました。聖書のいくつかの箇所が示すように、宗教指導者の中には、使徒たちの権威と、その結果として生じる人々(ユダヤ人と異邦人の双方)に対する彼らの影響力を妬む人たちもいました。セブンスデー・アドベンチスト教会も、説教と教えることの双方を通して、あかしと、聖書による説明をするように奨励してきた根強い歴史を持っています。安息日学校を聖なる礼拝(説教)や安息日のほかの集会(例えば、青年の集会)と結びつけることで、セブンスデー・アドベンチストの礼拝にきちんとした強固な教育的基盤が与えられます。それはほかの学習体験によって補われる必要がありますが、安息日の教育的体験には不可欠です。

                                           

火曜日のページの欄外に「あなたは安息日が好きですか」とあります。安息日を好き嫌いで考えてはいけないという方もいらっしゃるかもしれませんが、この問いをあなた自身に問いかけてみてください。わたしは生まれた時から教会へ通っていました。子どもの時、安息日は制限がある堅苦しい日で、帰宅してから教会でうるさかったなどと親から怒られる日でした。三育で寮生活をしていた時に、金曜日の夕方になると鐘の音がスピーカーから流れて、学校の流れが止まるようなあの静かな雰囲気は好きでした。牧師になってからは安息日は、みなさんをお迎えし説教をして、朝から雪かきをして一日走り回って、もちろんともに神さまを讃美することはうれしいことでしたが、忙しい日々でした。

そして数年前から特養の責任者をして一週間仕事をして、安息日を迎えています。教会は職場の中にありますが、一週間いっしょうけんめいに働いて、神さまに守られて今週も安息日を迎えられた、このような喜びを強く感じています。だから安息日が大好きです。

安息日が好き嫌いは、その日がどうこうではなく神さまとわたしの関係の結果ではないでしょうか。神さまを愛し感謝と讃美のうちに生きているとしたら安息日は喜びです。けれどもまわりの信徒の目が気になったり、安息日を守っていないことの負い目などがあったら、そこには喜びがありません。安息日を守ることよりも、それを制定された神さまとあなたの関係が問われる日なのです。