第11課 クリスチャンと仕事 12月12日
暗唱聖句
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
Ⅰコリント15:58
今週の聖句
創世記3:19、申命記16:15、出エジプト記25:10~30:38、ガラテヤ5:22~26、コヘレト9:10、Ⅰコリント10:31
今週の研究
仕事は、神が考え出されたものです。罪に堕ちる前の理想的な世界で、神はアダムとエバに、園の世話をするという務めをお与えになりました(創2:15)。創造主と同様、みかたちにかたどって造られた2人は、創造的な仕事と愛情深い奉仕に従事することになっていたのです。つまり、罪に堕ちる前の世界、罪も死も苦しみもない世界でも、人間は仕事をしなければなりませんでした。
私たちは今週、仕事に関するあらゆる疑問と、キリスト教教育におけるその役割について考えます。
月曜日:仕事は私たちにとって神の祝福であり(詩編90:17 参照)、それによって私たちは意義深い生活を送ることができますが、神の最終的なご計画は、仕事がほかの人たちを祝福することです。パウロは、自分の手で何か有用なことをして、私たちは働かなければならない、と書いています。その結果、私たちはほかの人に分け与えるものを得ることができるのです。パウロは確かにこの原則に従って生きました。
火曜日:このように、堕落した罪深い人間であるということは、どんな務めであれ、最高とは言えない献身でそれを扱う正当な理由にはなりません。神は私たちに、いつも最善をなすこと、大いなる働きのために私たちの才能、能力、時間、教育を有効に利用することを期待しておられるのです。
水曜日:「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラ5:25)。仕事と霊性とは切り離せません。キリスト教は、人が気分を変えたり、人生の異なる段階を経るときに、脱いだり、着たりできる衣服ではありません。そうではなく、キリスト教は、仕事を含む生活のすべての面であらわれる新しい存在を生み出すのです。
木曜日:「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい」(コヘ9:10)。最も賢い人間〔ソロモン〕が、生活のあらゆる面における管理者の務めについて、このような勧告の言葉を用いています。
クリスチャンとしての管理者の務めについて一言求められると、多くの人がクリスチャンの金銭的責任にだけ考えを限定してしまいます。確かに、金銭は管理者の務めの重要な一側面ですが、この務めを金銭にだけ限ることは、あまりにも狭すぎます。
教会において、神が私たちに授けてくださった資源とは何でしょうか。ペトロは、すべての人が創造主から授けられた賜物を持っていると明言し、そのような賜物を授かっているクリスチャンたちを「聖なる祭司」(Ⅰペト2:5)と呼んでいます。彼らには、神から与えられたあらゆる賜物(金銭、時間、エネルギー、才能など)を管理する責任が神に対してあるのです。
今週は、仕事について考えます。わたしは特養の管理者として仕事をしています。そこで今までは学んだことの無かった労務関係についても、最低限の知識が求められ、関連する講習会などにもたびたび参加しています。その中で感じたのは現在の法体系などの中では、労働者の権利がとても手厚く守られていることを知りました。
現代の風潮を見ていると、できるだけ給与が高くて、楽をしてきれいにカッコよく働いて、そして余暇を充実させるような生き方がもてはやされています。けれども仕事は、泥臭く苦労をしないと成果をつかむことができません。施設にはいろいろな営業の方がやってきたり電話でのセールスもありますが、客の心を動かさなければ、どんなに良い物でも購入する思いにはなりません。
けれども仕事には、もう一つ大きな目的があります。それはだれかの幸せのために働くことなのです。この稿で何回も書いていますが、いのちはどこから来たのでしょう。何のために与えられているのでしょうか。クリスチャンになるとは、生きる向きを自分のためではなく、神さまのみこころを実現するために変えることなのです。自分の能力も、神さまから与えられた賜物と考える時に、働き方が変わって行きます。このような生き方を教えることがクリスチャンの教育なのです。